旧式
旧式
最新型でないと時代遅れとなり、なんとなくカッコ悪いと思わされているね。自分が持っているものの新製品が出た瞬間に、あなたはなぜか不安になる。特に何が足りないとか壊れかけているとかでもないのにね。あるいは、現役バリバリの時代は、まさにあなたの時代が到来したと鼻息も荒かっただろうけれども、優秀な若手がどんどん現れたときにあなたは潮時を感じている。それらはどうしてそうなるのかを紐解いていくと、ある一つの価値観が浮かび上がってくる。それは、新しい物はいいものだということだね。老害なんてひどい言葉があるけれども、人は若いほうが活動分野において能力が優れていて、モノも新しいものが高性能だという法則から来た言葉だね。多少の無理もきくし、手際よく仕事ができる人は優れていて、活動量においては衰えてしまっていて、古ぼけた耳の痛い知見しか言わないのは害でしかないと断罪している。それらは全てのものに終わるがある結果だけれども、なんであってもそこから学び取ることができる人が本当の意味で一番優れているのはいつの時代も変わらないね。
学び
もはや働かないおじさんと呼ばれてしまっている人たちも、かつてはいろんな困難を乗り越えてきたわけだ。世代が違うから若いあなたの苦労とかつての彼らの苦労は比べることはできない。だからどっちがどうだとか言うのはナンセンスだ。そしてかつての若者はやっぱり同じように諸先輩を越えようとしてきたこともまた事実だね。上司や目上の存在がときに鬱陶しく思ったことがないといえば嘘になる。しかしながら、一定のリスペクトは失わないように注意していた。ところが今はそれが少し極端に軽視しているようだ。役に立つか立たないかの二元論で断罪し始めたのも、結局のところ能力主義、成果主義という価値基準が浸透し始めたからであり、それもたとえ教訓がそこにあったとしても過程はともかく結果が一番重要視されるようになった背景がそこにあるわけだね。プロセスよりもアウトプットを重視するあまり、プロセスはデタラメでもなにかを生み出せばそれでいいという風潮が強くなりすぎている。その結果社会が失ったものは徐々に明らかになりつつあるようだ。
ゴール
そんなこんなで人生をそれぞれが歩み始めて、行き着くところは同じ場所となる。優秀な若人もいずれは劣化するし、そのままであっても時代によって社会情勢が大きく変化しかつての価値観も通用しなくなるだろう。高性能だとか便利さだとかもその基準はどんどん変わっていくわけだ。かつては物知り博士だと尊敬された時代は終焉を迎え、今では外部記憶装置化したITを駆使してAIを活用できる人が優れている人となっている。もはやコツコツと読書したり絵画を見たり実際に体験するために現場に足を運んだりするのは非効率だね。ネットで仮想環境において疑似体験をどこでも誰でもできるからだ。そこで実体験とそれらは全く質が違うなんて言うと、それはそうだろうけれどもその疑似体験のコストがほとんどかからないために、かつての一生分の体験を数年で見聞きすることができることの効用は未だ計り知れないね。もちろん質か量かという議論は尽きないだろうけれども、これまでと全く違う時代に突入しているのは事実だ。いずれにせよ心配しなくてもいいのは、あなたは質や量で計れるそれらのために生まれたわけではないのだからね。