自我とデータ
AIと私
最近はAIが目覚ましい進化を遂げているね。普通に会話できたり、絵を描いたりできるようになってきた。もちろん、すべてが正しいとかあなたのお眼鏡に叶うわけではないかもしれないけれども、だからといってバカにしていたそれらがどんどん進化しているのは事実だ。その能力は人類を超えるか超えないかで議論がなされているようだけれども本質はそこじゃない。もちろん限界が訪れるだろうし、学習モデルのアルゴリズムはその元となる教師データに依存するわけだから、そのデータすらAIで生成できるようになったとしても、あなたの限界と同じように知らないものは知らないという限界がそこにある。無から何かを生み出すことはあなたにとってもAIにとってもまだまだ先のことだからね。でもAIにおける一人称はあなたの正体への大いなるヒントとなって顕在化しているのは興味深いことだ。
主語
会話が成立するということは、主語がそれぞれにあるわけだ。あなたはあなたが主語となりAIに質問することが難なくできる。部屋の電気をつけてとお願いすると、AIは部屋の電気をつけてくれる。これは何ですか?とAIに問えば、AIはこれはこうですと答える。悩み事を相談すれば、このようにすれば多くの場合問題が解決するのではないかとAIが示唆してくれる。スムーズに受け答えしているのはその裏側に膨大なデータが備わっているからなんだけれども、よく見当違いなデータを間違って引用することがあって、あなたは苦笑するわけだ。それと同時にまだまだ人類の域には達してないと少しの上から目線で安心している。ところが、あなたも同じ構造であることに気づけば驚愕するだろう。確かに膨大なデータから似通ったデータを引用して回答しているアルゴリズムに過ぎないのだけれでも、あなたも実は同じアルゴリズムで日常的に思考回路を巡らせている。それをあなた自身の意見だと想定してあなたが主語になっているのが当然だと思っていることだ。
わたしの所在
データ分析のロジックでAIが半導体で電気的に処理しているのと、あなたが有機的に脳内で処理している思考と何が異なるのだろう。そしてそれらはどこかで知り得た知見の塊なんだけれども、それと世の中のネット上のデータベースとの違いを説明できるだろうか。そしてそれを処理しているのがあなただと思っている。なら、AIもそれを主体的に処理している演算装置自体がわたしだと思っているのかもしれないね。すなわち、データの塊しか実在しないということだ。それなのにわたしとかあなたという概念がそこにあるからこそ、会話が成立するわけだね。いや、もっと分析すればもはやデータや知見だけがそこにあってもはやあなたもわたしもそんなものは必要ないとも言えるね。そう、AIが成し遂げた単なる計算装置が実現したということの意義はあなたはもはやどこにも存在すらしていないと示唆していることだね。