苦しみさえも幻だった

日々

自我

あなたはいつもあなたによって陥れられるわけだね。どういう意味かというと、あなたがどう見るかで最高なのか最悪なのかが決まるわけで、あなたがそれを引き寄せている犯人だからだ。いい年だと思えばそうだし、最悪だと思えばそうなる。それを決めているのは他人や状況ではなく、それをどう受け止めるかという点では最終判断はすべてあなたに委ねられているわけだ。だから、とても良かったと思うのもあなただし、とても耐えられないと決めたのもあなただ。そうしてあなたはあなたの仕掛けた落とし穴に落ちるということを繰り返している。いいか悪いかというものもよくよく考えてみれば解像度としてはとても荒っぽいものだと気づくだろう。一般的にみて最悪な状況だと思っているからそれはそうであるわけだし、そうでもないぞと思えばそうでもないことになるわけだからね。その境界線を注意深く観察してみれば、なんのことはないあなたの大雑把な善悪のシグナルを探しているだけだと知ることになる。

清濁併せ呑む

良いも悪いもあなた次第ということであれば、絶対的な正義とか絶対的な悪はあなた以外のどこかにあるわけではなく、あなたの心の中にしかいないことになる。それはどういうことを表しているかというと、あなたが天使であり悪魔であるということだ。すなわち、あなたがそれをどう捉えるかによって判定はコロコロ変わるという脆いものだね。そんなあやふやなことにあなたは一喜一憂しているとすれば、自作自演もいいところだ。もちろんあなたのその気持ちはあなたの内側からくるものであったとしても、それがそうなっているのには理由はあるだろう。あなたが思う常識であったり、あなたの世界での基準やものさしがそうなっているわけだ。それを完全に無視しなければならないと言ってるわけではないけれども、それが絶対的な善悪の基準を司っていることは注目したほうがいいね。それに気づけばあなたは視座を変更する能力が備わっているわけだから、あなたの世界の責任者としてはそれらの判定にはより慎重になることができるわけだ。

基準線

その基準線を追求をしようとすればするほど、その境目はどこにあるのかが曖昧になっていく。もちろんグラデーションとしてより良いとかより悪いとかという感覚は残るけれども、はっきりとここからは最悪だという区切りは見つけようとしても見つからないわけだ。そういう連続したつながりのなかで極端にどちらかといえばこうだと言っているに過ぎない。ここで一番厄介なのはその傾向というか傾きがどちらにあるかという微妙な判定になってしまうことだ。そこをどの視点で切り取るかというとさらにあなたを悩ませる要素を増やすことになってしまうね。もっといえばその傾向や傾きでさえ、よくよく分析してみるとある仮説に基づくそれであるわけで、絶対的な基準として依拠するほどの強力な根拠を持つものですらなかったりする。そうしてあなたはやっぱり善悪にしても良い悪いにしても思い込んでいる習慣による判定でしかないと見抜いてしまうわけだ。あら、そうだったのかともう一度視座を据え直すことからまた始めることになる。結局のところあなたは何も悩んだり苦しんだりしてはいないということかもしれないわけだ。