懐かしい日々

日々

懐かしさ

ふと耳にした曲がなんだか前にも聞いたことがあるような気がして、注意深く耳を澄ませると曲名というよりもそのメロディーから思い出される風景というかシーンが蘇ることがある。どんどんそれが鮮明になってくると当時の五感で感じられたほとんどがまるで目の前にタイムスリップしたかのように再現されて懐かしむわけだ。そこまで思い出せなくてもなんとなく前にも経験したことがあるかも、という感覚を日常でしばしば感じる。それを懐かしいという言葉で表現しているわけだ。このなんとも言えない懐かしいという感覚が共有されていて言葉が生まれているのは、ほとんどの人がそれを体験しているからなのだろう。では幼子はどうだろうか。生まれてほとんど経験がないにもかかわらず懐かしいと感じるその感覚の根はそこにあるのだろうか。もはやあなたがそうだったかどうかも思い出せないね。でも懐かしさは急にあなたに訪れるわけだ。

歴史と知恵

これまであなたがまだ生まれていなかった頃の知恵も書物も見たり読んだりするのは大変だった。今はネットワークが発達して遠くの大学の図書館にいかなくてもデジタルデータで閲覧することができる時代だね。未だに実物に触れるという触覚の体験はなかなできそうにないけれども、見るや読むは容易くなった。先の五感のうち視覚だけが特化する時代でもあるわけだ。未だに実際に足を運んで、実物を手にとって、それを慎重に1ページずつめくるという体験がとても貴重なものであるとも言えるね。内容やその周辺状況に関する視覚的なデータは何度も見られるというのに、実際のその場の空気感や匂いや天候やたまたまそこで出会った人たちの表情などのデータはゼロなんだ。そうやって体験がどんどんある意味歪んでしまうわけだ。それを続けた先の感じる懐かしさは、果たしてどんな感じになるのだろうね。そこはまだ誰にもわからない世界でもあるわけだけれどもね。

五感の記憶

論文を探して、Google Scholarで見つけて読むことは容易くなった。まぁ中身が理解できるかどうかはさておいてね。そしてもし不明なことがあればさらにAIに聞けばいいし、なんなら数百文字程度にまとめてもらうこともできる時代だ。要点を掴むにはより高速に可能だね。でも一方でコンテキストまでは掴めない。そして視覚だけが頼りでそのときのあなたの聴覚はPCから流れている90年代ポップスのいわゆる懐メロだ。懐メロと最先端の研究論文、そしてそばにはコーヒーがある。部屋は空調が入っていて寒くも暑くもない。足は加齢に伴って少しばかり痛みがあるけれども、椅子に座って作業している分には全く問題ない。そんなときに宅配便を知らせるチャイムがなってあなたの思考は一旦中断される。さてあなたのこの体験はどんなふうに懐かしさを伴って再現されるのだろうね。ほとんどが真っ白いモニタに映る文字と、何枚かに重なったブラウザのウィンドウに覆い尽くされ、手元には冷めてしまったコーヒーにミルクがうっすら模様が見える。そして90年代のポップスが何の脈絡もなくランダムに流れ続けている。そんな様子を数年後に何かをきっかけにフラッシュバックするのだろう。やっぱり懐かしさは不思議な感覚には違いないね。