お気楽極楽
適当
何事も真摯に対応するのが良いと思い込んでいるね。けれどもある程度いい加減に受け流すのも大切だし、そのほうが実践しようとしてもなかなかうまくいかないことが多い。自ら適当だと吹聴する人ほど、実質的には一番真摯に受け止めているからこその発言だ。それぐらいいい感じでほどほどというのは実は一番厄介だし難しい。スポーツでも初心者は余計な力みが生まれ、なにか一つ習得するにも四苦八苦する。それらを一旦諦めて、適度に力が抜けるとこれまでとても難しかったことがすっとできるようになったりする。初めて楽器を演奏しようとするときもそうだね。アコースティックギターなんかは金属の弦を柔らかな指先で押さえないときれいな音が響かない。その硬さで指先が痛くて仕方がないわけだ。ところが弾き込んでいるうちに、押さえるポイントや位置がわかるようになって、素敵な音を奏でることができるようになるわけだ。それもおそらくある日突然そうなってできるようになった本人が一番驚いたりするね。
ちゃんとする
きちんとやろうとすることが、自分のためなのか他人のためなのかにも大きく意味合いが変わってくるね。そこが見栄や自慢のためであったとしても、一見同じように見えてしまう。ところが不思議なことにそういう上手く思われたいとか、かっこいいと呼ばれたいという原動力が諦めに変わったとき、思わぬところで称賛されたりする経験があるだろう。いまいちだった出来栄えであってもなぜか褒められたりするからだね。そこで自らの思う理想像と現実との乖離を再認識できたりもする。スポーツでも芸術でも仕事においても、頑張りすぎないことであなたの魅力が漏れ出るわけだ。そこには数値化できない魅力が漏れ出ているということであり、あなたの理想とのギャップがかなりあるということでもある。あなたの最初の動機はよく思われたいというだけのものが、実は幸せを誰かに分け与えているとしたら、どんどんわがままのあなたを遠慮なくさらけ出せばいいってことになるね。
真の魅力
あなたがそうやって逡巡したり試行錯誤したり人知れず努力したりすることで、まさにあなたの役割を全うしていることを感じるだろう。そのためにあなたはそこに必要であって、どんな人でもそうなんだ。もちろん万人に好かれようなんていう無謀な理想は叶うわけではない。さらに言えばそれが実現できたとしても、あなただけがずっと幸せではない状態は不自然なわけだ。そうではなく、あなたがあなたらしく生きることで、万人ではなくとも誰かを必ず幸せに導いている。これだけはどうやら間違いないわけだね。あなたのファンは数万人というわけではない。けれども身近な誰か一人でもあなたのファンでいてくれさえすれば、あなたの適当さが誰かの幸せにつながることは間違いないわけだ。頑張りすぎて辛く思い、行き過ぎると身体まで壊してしまうぐらいなら、完璧主義を手放すほうが幸せを生み出すのはそういう仕組みなんだよ。しかもそれはあなただけの問題ではないのもわかるね。