木の棒
機能と実在
アウトドアが好きなあなたは、毎週末お気に入りのキャンプに出かけたりする。いつもは食材も用意してコッヘルや調理器具なんかを持って外で料理して食べるのが好きだね。ところが今日はその時間が取れなかったので、スーパーで惣菜なんかを適当に買ってそれを夕食にしようとした。ところがうっかりお箸をもらうのを忘れたことを現地で知るわけだ。さて困ったな、なにかお箸の代わりになるものがないかと探し始めるね。適当な長さと太さの木の棒があれば代用できるからだ。だからあなたはそのミスぐらいで絶望したりすることはないね。おそらくはその代用になる木の枝を探して即座にお箸もどきをつくることができるからだね。それができるのは、お箸は実在しないということを知っているからだ。木の棒が一本だと機能は生まれないけれども、それを例えば折って二本にすれば、不思議なことにお箸として機能する。なんだ、お箸という実在があるわけではない。そこにあるのはあくまでも木の棒が二本あるだけだ。
概念
普段コップやお皿を使っているけれども、それも実は同じことだね。器がなければなにかをくり抜いて当座のしのぎになるし、お皿は大きな木の葉を洗って使えばとりあえずはいい。もちろんないよりもあったほうが便利だけれどもその本質はコップや皿という土やプラスティックでできたなにかがあるだけで、実は機能を利用しているだけに過ぎない。その目線で見直してみると、もはやコップは実在しないわけだ。実体としては液体が入る凹みがあるなにかがそこにあるだけで、その機能をコップと行ったりサラダボールと呼んだりしているだけのことだ。あなたがそれをそう呼ぶから初めて実在すると認識できるだけで、その正体はそこら辺にある物質に過ぎない。あなたのすべての世界の本質はそれだけなんだ。会社でも組織でも人間関係でもそこにあるのはそれらの機能の名前であって、それらそのものは実在しない。だからこの世は幻だと言われる所以でもあるわけだ。
正体
すべてが幻でできているのが本質だとすれば、あなたはこの世に実在しないことになる。あなたという概念が機能しているだけで、あなたは単なる地球の一部だとも言える。もっと言えば地球だというのも実在するわけではなく、理科の授業で習った概念でしかない。すべてが機能を有しているだけで、これまた理科で習った分子や原子しかそこにはないとなる。さらに深堀りすればそれも機能があるだけで実在しないことになる。となればすべては機能として認識されるだけであり、その実体はおそらくは一つのなにかだろう。それはもはやあなたの思考を超越したものになる。だからそれをあれこれ悩んだところで、その悩みという機能があるだけで実体は存在しないわけだ。高度に機能が発達した世の中において、科学という概念が進化している。けれどもそれを制御しているのはそこら辺に転がっている石ころからできている。その石板からあふれる情報に右往左往しているだけなんだよ。