若々しさ
気づき
例えばいつものように過ごせない状態になったとき、これまでのいつもがかけがえのないものだと初めて気がつくことがある。その身近な例として健康だね。どこも痛みもなく、それ故に刺激も少なく穏やかな毎日だったからこそ不平不満も存分に感じられたわけだけれども、一度健康を害してしまうとそれどころではなくなってしまう。健康な身体があっての幸せだの不幸だのという不満が成立するのであって、明日生きるか死ぬかの瀬戸際ではそんなことは些細なことだと知るだろう。だからこそ実は不平不満を言えるぐらいの余裕のある状態は、実はまさに幸せの真っ只中だというパラドックスがそこに生まれるわけだ。平凡でつまらない毎日に飽き飽きしているのなら、それが実現できている証拠としてはまさに健康だと言っても良い。すなわちこれらは失われたときに初めて気づくことであり、それを失う前は人生はクソだと思い込んでいただけのことだ。
老化
いつまでも若々しく過ごしたいと思う一番の要因は、やりたいことを存分にやれるという行動力を維持したいからだ。ところがこれも実際に若い頃にはそんなものに何の価値も見いだせない。もっと偉くなったりもっと資産をもっていたりとそれを前提とした違うところばかりに気を取られているわけだ。それらは振り返ってみてそうだったと気がつくことが多い。ということは幸せとはまさに今の状態を指すものなんだけれども、気がつくのはいつも後からという構造になっている。だから気がついたときには後の祭りになっていることがほとんどとなる。それ故に後悔ばかりが先に立ってしまって、実は最高だった日々を思い出としてしか認識することができない。となれば今あなたは少し気がつくのが遅かったかもしれないけれども最高の状態だと思う方がいいってわけだ。もちろんそんなことがないというもう一人のあなたがそこにいるだろう。だからにわかにそれを受け入れることは難しいかもしれないね。
遅すぎることはない
だからこそ、先人たちは人生において今しかないわけで、何を新たに始めるにして遅すぎることはないというわけだ。今それを思いついてやりたいと思うのであれば、若いあの頃よりも行動力は減少しているかもしれないがそれを先送りするのは得策ではないね。だからといって、今苦労しておけばこの先未来において楽しいことが待っていると我慢しすぎることもない。今を大切にするのは、そういったある意味投資の部分もありつつも、やっぱり今を充実させる生き方が自然だろう。それは決して刹那的な享楽におぼれて、自滅的な暮らしをせよというわけではない。その考えが浮かぶのであれば、これまで今をないがしろにしてきたという悪い習慣がそうさせていることに注意しよう。今を大切にしてきたならば決してそんな風にはならない。今さえよければそれでいいという考えは、過去に執着しているからこそそうなるのであって本当に充実した毎日を過ごしているのであれば、それは自然に楽しくないからね。年齢は無関係だということがこれでわかるかな。