無駄という無駄

日々

無駄

そんなことしても無駄だと思い込んでいることばかりがあなたの目の前にある。だからあなたはより効率的で効果的なものだけを選別しているつもりでいるわけだ。しかしながら一方で、やってみたこともないことに初めて触れた時、あなたは何でもやってみないとわからないと知る。そう、無駄だと思っていることは、あなたが決めつけたなにかでしかなく、それ自体はいつも間違っていることが多いわけだ。もっといえば、その無駄だと思ったきっかけはなんだろうと深く分析してみれば、それは世間でそう言われていたとか、誰かがそう言っていたとか、そういうものでしかないことに気づくだろう。あなたはやってみたこともないことを知ったかぶりをしているだけなんだ。いやいや、自分でも以前やってみてどうにもこうにもならかったから無駄だというかもしれない。けれどもそれはやり方を変えてみたり、あなたが決めたそういうものであるという所与の条件を変えてみたりすればあっという間にそうではなくなることなんだ。いわば可能性を自ら封印しただけに過ぎないわけだね。

正しさ

それを根拠にあなたは選別手段として、まだ見ぬ世界を放棄していることになる。そんなことしてどうにもならないだろう、という勝手な推論から自らの選択肢を限定したり、時には選択肢すらないものとしてしまって八方塞がりな状況に自ら追い込んでいる。それでもう絶望しかないとか、これほどまでに選択の自由すら許されない境遇を憂いでいるわけだ。自作自演の悲劇を楽しむならまだしも、それをもとに腹いせで誰かに対する嫉妬や呪いと変えてしまうのなら、もはや目も当てられない状態であるとも言えるね。さらに最悪なことにあなただけの偏った正しさで、感情が揺さぶられて正義の味方のような振る舞いをし続けることで、すべての可能性という扉をどんどんあなたが閉じてしまっている。逆に言えばそういう傾向にあなたがあると知れば、こんなことをしたところでどうなるのか、ということにあえて挑戦することに抵抗がなくなるだろう。そこまでに到達できなくとも、目の前の厄介事に対する打ち手がまだ残されていることに気づくことができるね。

よしなしごと

不本意に選ばされ、与えられたと思い込んでいる、移りゆく日常におこる厄介事に対する思考のアプローチが大きく変化する。そしてそれらは決して無駄でも不幸でもなく、あなたがそれを生み出したものとして愛おしく思えるようになるだろう。まさに人生に無駄なんてなにもないという実感がそこにある。ところがあなたが未知なものはすべてあなたの日常を奪ったり破壊するように感じるが故に、あなたの正しさが発動してそれらはすべて無駄であり厄介事だと判定して忌み嫌っているわけだ。しかしそれらはあなたにとってのチャンスの扉であり、新たなゲームの始まりでもあるわけだ。だからどちらかというと積極的に関与して、真摯に真正面からやり切ることで次のゲームがまた始まる。それはもはや自らその中に飛び込むことで、主体的にあなたが選んだことを同等となる。そこではあなたのこれまでの正しさや不幸はもはや通用しないことを体験したとき、人生というゲームの醍醐味がそこに生まれて世界がガラッと変わったように感じられるだろう。