偏見
親しい仲
気のおけない友人と、どうも反りが合わない上司との違いはなんだろう。親しい友人に関しては、共感を持てて無条件の愛がそこにあるけれども、どうも意見が食い違う上司とは憎しみと悲しみしかない。そこに雲泥の差があってどうにもこうにも共感できることはないと思っている。ところが細部まで見てみるとどうだろう。親しい友人であったとしても、わかり合えないことも見つかるし、気に入らない上司であってもほぼ同じ考えのときもあるだろう。となればそこに大いなる隔たりがあると思っている根拠は一体なんだろう。ほとんどが勘違いに近い、なんてことのないズレを大げさに見るか、大したことがない個性だと見るかの違いしかないわけだ。それを知ったとしてもやっぱりいけ好かない上司はいつまでもそのままなのは、あなたが彼を知ろうとしていないからに過ぎないわけだね。ほとんどそう決めつけているだけで、他のことは目を瞑って見ないようにしているだけのことでしかない。
相互理解
そもそもわかり合えないからダメだという思い込みは一体どこからそうなったのだろう。すべてが分かり合える友人なんて実は幻想であって、この世のどこにも存在はしない。ところがあなたがチョイスした一つの基準だけが馬が合えば、それだけで絶大な信頼を寄せているわけだ。もっと言えばそれ以外のほとんどが同じようなもので、大した差がないにしても、たった一つのあなたの基準で照らし合わせたその一つだけですべてを決めつけている。そこに大きな違いはどこにも見つからないわけだ。それなのにあなたは徹底的にそれだけのことで、愛と憎しみを使い分けている。よく考えてみればおかしな話だね。ここだけはどうしても許せないと思っている根拠すら怪しいのに、それだけのものさしで相手を選別して分類しているわけだ。その必要性や根拠は改めて説明しようとしても、結局のところなんとなくそう思ったきっかけがあったという結論にすべては帰着してしまうのだからね。
だからどうした
あなたがいつの間にか絶対視しているそれは、だからどうしたと言われたら答えようもないのはそういう仕組みだからだ。とにかく気に入らないとかなんとなく嫌だと言っている子どものような理由付けしかない。なのにそのバイアスによって同じことを親しい友人がやっても気にならないのに、嫌いな上司は絶対に許せないようになっている。そこには本当に理解しようという姿勢がそもそも最初から失われてしまっているわけだ。もちろん、あなたに危害を加えるような存在であれば距離を置くのがいいけれども、そもそもそういうことをするのはどうしてかという分析をしてみるのも悪くはないね。その難しさは実は彼のせいではなく、あなたにあるのも気づくだろう。あなたが理解する彼の像を一旦できるだけクリアにしなければそれができないからだ。どんなことにおいても同じようになっていて、理解しがたいものを理解してみようと挑戦することが、実はあなたに大いなる気づきを与えてくれる唯一の方法なんだ。逆に言えばそれができないままだと、あなたはずっと前には進めない過去の遺物となってしまっているのだからね。