適当という特殊能力

日々

適当

すべての物事において、適当さが一番だね。適当というとなんとなくいい加減であり良くないことだと思い込んでいるだろう。けれどもその適当さがちょうどいいとき、すべてはうまく回り始めるわけだ。人生という大きな絵を眺めるときも、そのちょうどい距離がそこにあるから、一望できるわけだからね。あまりに近すぎると一部だけがクローズアップされて思わぬあらが見えてきてしまう。かといって遠すぎるとそのデティールがよく見えなくて、部分としての良いところも見逃してしまうわけだ。ちょうどいいところから眺めることで詳細も全体のバランスも同時に感じ取ることができる。だからその適当さを誤ってしまうと、細々としたところばかりに注目したり、全体の不完全さばかりが目立つ位置で嘆いたりしてしまうわけだ。いつもそこにはない空白部分ばかりが目立って、まだ何にも手にしていないと勘違いして、そこを埋めることばかりに意識が向いてしまうのは適当さを調整しなければならない。あるいは距離が近すぎて、細かな部分ばかりを修正し続けて、人生の絵の全体を描き切るのに時間が足りなくなったりもするわけだ。

不即不離

一番の悩みになる人間関係もそうだね。あまりに親しすぎるとかえってギクシャクするのは近すぎるからだ。かといって距離を置きすぎるとよそよそしくなる。どちらもうまくはいかない。ちょうどいい距離でお互いに過干渉を避け、かといって突き放さない適切な距離を保ち続けることが、ちょうどいい関係となる。よく考えてみれば気のおけない友人のことをすべて理解したつもりでいるのも、疎遠な人だからといってすべてがわからないと思い込むのも、それらは適切な位置関係にいない証拠だね。そもそもすべてが分かりすぎるのはデティールだけを見つめてしまっているわけだし、それ故にそうではないと思ったときに関係が急激に悪化したりする。逆に疎遠な人はあまりにも関わりが薄くなってしまって、あなたにとっては多くの人の一人と化してしまうだろう。人間関係にも適当な距離を保つことがうまくいく秘訣なのはそういうことだ。

揺らぎ

それは絶えず変化し続けている。機械的に一定の距離を保つことはできない。最近の技術ではその距離を正確に保つことができるロボットが開発できるだろう。そこがロボットやAIと人の決定的な違いになりつつあるね。人はどれほど熟練しても、たまにそれを外すことができるわけだ。逆に言えばそれができることが人の最大のいいところとも言える。距離を自在に調整する過程において、近すぎたり遠すぎたりしてしまえる余白がそこにあるかないかということが、人間らしさと同義になっている。ロボットはプログラミングで決められた距離を常に保ち続ける動作をするだけだけれども、人はそれを外すことができるというゆらぎをゼロにすることが苦手だからだ。それもわざと近すぎたり遠ざけることだってできるね。そうやってミステイクを繰り返すことができるというのは、まだまだ捨てたもんじゃないということでもある。ミステイクを重ねることで人であるという喜びを感じられるのだからね。