無駄と向き合う
寄り道
寄り道をしないと、最短ルートでいつもと同じ道を通うことになる。それがベストプラクティスだとすればそれが最も効率的な無駄のない行動だとも言える。けれども新たな発見をそこで見出すのはかなり困難になるだろう。寄り道をすることで、実はもっと効率的なルートを発掘する可能性が残されているわけだからね。ところが、一度習慣化してしまうとそれそのものがベストプラクティスと置き換わってしまって、その可能性を閉ざしてしまうことに注意が必要だ。ときに無駄なことをやってみるのを勧めるのも今ベストだと思っているそれを書き換える可能性を閉ざさないという点で大切だからだ。一度そう思ってしまうと、それ以外はすべて悪手になってしまって逆言えばそれ以外は悪として見向きもしないようになってしまう。そうやって誰もが思いつかなかったことが起こるとき、それはそんなことして何になると批判された何かしか、その扉をこじ開けることができないからね。
効率化の罠
そのように効率化とは前例主義、ひいては正解主義の罠でもある。ずっとやり続けていることがどんどん改善されて、ブラッシュアップを繰り返すことでこれ以上のコスパは求められないという認識において、それ以外は無駄なことだと切り捨てるとどうなるか。それは近代のこの国の状況を見ればわかるかもしれない。もちろん繰り返しやっていることでかなりの効率化が進んでいるのも事実だけれども、逆に言えば新たなブレイクスルーは訪れてはいないようだ。そこには遊びという無駄を全く切り離すことでそれが達成されているからだとも言える。それはある意味正解で鉄板だろう。だから失敗が許されないという状況においてはその方法も選択肢としては最も適切だとも言える。けれども、状況が目まぐるしく変わる不確実性が高まった時代においてのそれはもはや古ぼけた手法となってしまっているとも言える。とことん無駄が削ぎ落とされた後は、進化の度合いは少なくなってしまうのはもはや必然だとも言っていいだろう。
イノベーション
こんなものが何の役に立つのだろうか、なんて思うことが実は結果的にイノベーションを引き起こすわけだ。逆に言えば無駄があるからこそ、それが実現できるわけだ。だから最短距離で進みつつもたまには遊びや余白を入れて、精一杯無駄を楽しむことを忘れてはいけないね。その場合は世間の理解も得にくく、風当たりも強い場合が多いだろう。けれども凝り固まって洗練された手法を繰り返したところで、高度成長期でもない限りいずれはそれすらも無駄になるというジレンマがそこにあることも理解しておく必要がある。効率化という正義が通用するのもそういった社会情勢の裏打ちがないと成立しない。どんな正義も幸せも含めてずっと永遠に同じ価値を持つものはない。なぜなら刻一刻とすべては流転し続けているからだ。タイパやコスパだけであなた自身を縛り付けるのはほどほどにしておいた方がいいというのは、そういうことだよ。