学びのチャンス
失敗
失敗を恐れるのは、それによってあなたが低く評価されてしまうことだね。親が子育てに力を入れるのも子どものためだという表面的な大義だと言うけれども、実は子育てに失敗した親として見られることを恐れているのが本音だろう。今の子どもたちに直接聞いても、失敗したら恥であり、それによって馬鹿にされてしまうから嫌だと言う。そんな価値観を押し付けたのは一体誰かといえば、実は教育現場であり、悪気のない先生や親であることは間違いないね。だから失敗は避けるべき悪であり、万が一そうなったとしてもできれば隠し通したいわけだし、バレたとしても言い訳でなんとか乗り切る方法を模索するわけだ。大人の世界でさえ、なにか不祥事があれば辞職して失敗を経験として活用しようとするわけではなく、なかったことにすることばかりを繰り返している。それらを告発する側もそれを望んでいる傾向が強く感じられるのも同じ失敗は恥ずべきことだという固定観念がそうさせているわけだ。
本音と建前
だから失敗をリカバリーするには思ってもいない綺麗事を並べて、心の中ではそう思っていなくとも表面的に謝罪の言葉を発するわけだ。多大なご迷惑とご心配をおかけしたことを深くお詫び申し上げます、なんていう常套句があるけれども、よく意味を考えれば何を言っているのかさっぱりわからない言葉の羅列だね。ご迷惑はまだしも、心配なんて誰もしていないしあなたに対する愛情がそれほど普段からあったわけでもない。でもそれを謝罪する側から免罪符的にそう言う習わしみたいな決まり文句を並べて幕引きをしようとしているわけだ。しかもそれを言われる側もその言葉を言わせたいがためにとことん追求したり批判したりを繰り返しているから目も当てられない状況だとも言える。結局それで辞職したりいなくなったりするわけだけれども、それで何が改善されたというのかを問えば、ほとんどの人が調子乗っていた鬱陶しい存在を消してやったぜと、ほぼ腹いせの解消でしかないね。
隠す
これまでの人生で誰かの世話になったり、失敗を一度もしないままに生きている人は皆無だろう。何人であっても赤子でこの世に生まれたわけだし、その弱い存在に愛情を注ぎ、おむつをかえてやり、乳を飲ませてもらって成長していくわけだからね。もちろんそうした恩は、社会貢献によって返していくことで多くの人に役に立っていくはずだ。けれどもいつの間にかその失敗すらないことにして、チャレンジした結果の失敗でさえも隠すようになる。失敗は優良な経験であって、そこから多くのことを学ぶチャンスであり、貴重な学習データであるにも関わらず、とにかくなかったことにしようとする。そんな文化で裏打ちされた社会では、そんな貴重な経験を隠してなかったことにしてしまうわけだ。あるいは曖昧なままでそこから得られる知見を社会に還元することをしない。失敗から多くを学び、次のステップへ進むことを偽りで固めてしまうから、同じことの繰り返しという呪縛から脱することができないというのにね。