実学主義の先に
教養と科学
今の時代は一般教養よりも実用性重視の科学の時代だね。すべてに立証可能性を求められ、実際にどのような役に立つのかということばかりが注目を浴びているわけだ。それが実際の社会において役立つということはある意味正解であり、その正解を求める傾向が強くなればなるほど、教養的な歴史や哲学や文学のようないわゆる文系の人気が衰えていく。そんななにかの役に立つと直接的に説明できないような叡智はどんどん軽視されていくだろう。AIが登場して、実際の社会変革を起こすものと比べて、哲学や芸術などは余白のようなものであり、あってもなくてもいいと言う価値観がどんどん進んでいけばその先は確実にディストピアになるだろう。便利さや役立つそれらをどのように使っていくのかというグランドデザインが蔑ろになってしまうと、それらの効用の裏側の副作用については蓋をするしかないからだね。インターネットがこれほどまでに普及するとは誰もが予想できなかった。そして今やほとんどの人々のそばにいつも常時接続されている結果何が起こっているかをつぶさに観察すればなんとなくわかってくるかもしれない。
人生戦略
今の時代に生まれた人々は、多かれ少なかれそういった科学から逃れられない状況にある。逆に言えばそれらを上手く使いこなすことで、激動の時代を乗り越えていくしか選択肢はないね。いつまでもそれらを拒絶したとしてもどんどん取り残されていくだけだし、いざそれらと向き合う必要が生まれたときに、大きなビハインドを背負うことになってしまう。だから仕方なくそれらを上手く活用する方法を模索し続けるしかないわけだ。けれども、その戦略を立案するためには、そのテクノロジーだけを理解しても上手くはいかない。なぜならそれらがどうやって生まれてきたか、そしてここまで普及した要因はなにかという歴史的背景やコンセプトを知らないままでは、結局のところ使いこなすというよりも使われてしまうことに終止してしまうからだ。それらを一旦俯瞰して見ることができる視座を得るためには、どうしても直接的な技術的知識よりもその背景といった哲学や歴史を知らなければならない。
アーキテクチャ
そもそも建築用語であったアーキテクチャという言葉をデジタルの世界でも使われるようになったのはどうしてか。それらは一つの建築物でありそのために必要な知識は広範囲にわたるわけだ。設計だけできてもダメだし、構造力学だけ知っていても不十分だ。建築様式はどの時代を模しているのか、それはどうしてそうなったのかとか、それらを実現する工法はどんな技術や建材が必要なのかだとか、その建材はどんな性質を利用しているのかなど枚挙にいとまがないぐらいの知恵が結集している。それらをすべて理解するのはもはや不可能であって、その上での大きなコンセプトとしてはそれらをひっくるめての生活様式や時代背景や耐久性などといった時空を超えたパースペクティブが必要だね。その融合で今それがそこに存在しているわけだ。単に批判しても仕方がないし、それを利用するだけでも本質はいつまでもわからないままだ。もちろんそれらをすべてわからないと話にならないと言う議論ではなく、単に技術面だけでわかったつもりになるのは不十分だということに気がついていればいい。そうすると必然的にアートが無意味だとかという議論すらなくなるだろうからね。