教育改革

日々

自主性と主体性

自主的に率先してやることと、主体的に何かをやることは大きく異なるね。自主的にやることが良いという教育を受けた人は、言わば空気を読んで先に動くという意味では評価されることが多い。それは上司の顔色を伺っていたり、先生の意図を汲み取ったり、友人の喜びそうなことを考えていたりする。一方で主体的に動ける人は、そういうことよりも自分自身で考えて行動するわけだから、他人の顔色とか様子は二の次になっているわけだ。おそらくは評価されることが多いのは、自主的に行動する人の方が自分で考えて行動できているとされる傾向が強い。ところが、それは自主的という名のもとで実は気遣いが上手だということでしかない。言わば空気を先読みして動いているだけのことで、その動機はそれによって誰かを喜ばせてついでに自分の評価も上げようとするだけのことに過ぎない。本当に主体的な行動を取れる人は、その場の状況を冷静に分析して誰かを喜ばせるという視点ではなく、すべての人にとって良いことはなにかという考察があってのことだね。

指揮官

現代社会において自主的に動ける人の評価は高く、主体的に物事を判断する人を遠ざける傾向にある。だから自主性と主体性が歪んで捉えられることが多い。特に会社や学校などの組織においては、上官である上司や先生の意図を汲み取りつつも率先して行動できることが正しいとされているからだ。本来の自主的、主体的な行動においてはその差異はほとんどないはずである。ところが、主体的に動くと評価は悪くなり、空気を読んで自主的に動いた人は特別扱いされるのはそういう理由からだ。この認知の歪みはどこから生じているかというと、未だに上意下達で軍隊主義的な行動を古き良き文化だと断定している固定観念である。情報がこれほどまでに誰もに届く時代になったというのに、未だにそれが美しき所作だとされている。そうだからこそ、未だに教育現場にしても、会社組織においても旧態依然としたルールを良きものだとし続けているわけだね。

奴隷制度

誰かに依拠して、自らの処遇を良くしてもらおうという気質は未だに残存している元凶は、幼少期の頃の学校制度そのものにあると言っていいだろう。先生という上官の命令に背くことなく、従順に従うことによって立場的に有利になるからだ。そこには評価という脅威があって、それを得ないと生きづらくなるように仕組んでいるからだね。それに背くものは排除し、徹底的に社会的制裁を加えるようなことを未だにやり続けている。それを支えているのはそれを良しとしていつまでもその観念から脱することができな親である。これほどまでに時代は大変革を遂げているというのに、未だ学歴信仰が続き、自主的に意図を汲み取って行動できる兵隊を大量生産し続けているわけだ。ナレッジがたくさんあることが正しいままで、インテリジェンスは二の次になっている。教育とは本来個々の優位性を引き出すものであるはずなのに、画一的な狭い世界に閉じ込めて勝手な行動を禁じることをやめないのは、自らの立場を守るためだけにやっていることだね。次世代を担う若者に対して、オールドタイプである大人世代の自らの価値観を押し付ける先に、新しい未来はいつまで経っても到来しないのはそういうことだ。