受容と執着
受容
すべてを受け入れるというと、あなたは眉をしかめてしまうだろう。あなたにとってそれは許しがたいものの許容を意味し、許せないと思う気持ちこそ大切にしてきたからだ。そのおかげであなたの決めた人の道を外れることなくこれまでなんとかやってこれたという自負があるのだからね。友人でも同僚でも、ミスなくそつなくこなす方が心地良いだろうし、何をやってもあなたかすればズレた視点で動き続けるのみならず、それによってあなたはその尻拭いをしなければならないとなるともううんざりしてしまうことだろう。だからやっぱり受け入れがたい存在はどうしても目につくようになるし、それらをすべて受容するなんてもはや神の領域だと思っている。どこまでお人好しになったところで、やっぱり他人に迷惑をかけることを続けているような人とは距離を置こうとするのは仕方がないことだということを受容しているわけだ。
執着
しかしながら一方で、あなたにとっては憧れたり尊敬できる人もいるね。彼らはあなたにとっての正解をことごとく実行し続けているからだ。その彼らを受け入れなさいと言われなくても、あなたが一番の彼らのファンでもあるだろう。そういう者にあなたもなりたいものだと感心している。さらには彼らをお手本として、あなたの苦手な行動を顧みて真似てみようとまで思っている。あなたが苦手な人たちと彼らの違いは一体どこにあるのだろうと考えてみると、それはあなたのものさしにぴったりとあてはまるかどうかの違いでしかないことに気づくだろう。彼らが特別な存在としてそこにあるわけではなく、あなたの心の中でその存在を生み出しているだけに過ぎないわけだ。気に入らない人たちにも家族があり、友人がいて、愛されている存在でもある。たまたまあなたにそぐわないだけであって、それらは絶対的な基準で決まっているようなものではないわけだ。
逆転
この世がどうであるかとか、幸せか不幸だとか、いい人だ悪い人だと決めているものさしは、社会が決めた仮のものでありあなたもその一部を採用しているに過ぎない可変的な基準にすぎない。時代とともに大きく変わることも歴史を振り返ってみれば知っているだろう。たまたま許せないと思う人が目の前にいたどころで、それも永遠に居続けるわけでもない。仮にしばらく付き合わなければならないとしてもずっと気に入らないままでいることも難しいだろう。あなたの知らない彼らの一面を見て、あなたはさらに複雑に感じて混乱することもあるだろう。すなわちあなたにとっての善悪の基準なんていうのは、自然界の中に確固たる基準としてそこにあるものではないね。それは時間を経て絶えず変化し続けるものであり、あるようで実はどこにもない幻想でもある。その中であなたがどのものさしを採用するかによって世界が大きく変化する。そういう疑いを解消していくことが生きることそのものでもあるかもしれないね。ほら、その瞬間にすべてを受容しているとも言い換えることができるわけだよ。