選択の自由
確かなこと
あなたはあなたにとって確かなことがある。だからそれと照らし合わせていいとか悪いとかを判断することができるわけだ。しかしながらその確かなことはあなた独自で生み出したものではなく、これまでの人生の中で培ってきた誰かのなにかでできている。そういう意味ではあなたが完全オリジナルで生み出したものはほとんどないわけだ。さらにそれらはあなたが育ってきた環境に大いに依存している。見てきた風景がその立ち位置で決まってしまうからだね。生まれ育った環境にかなり影響を受けているとすれば、その確かなものは別の場所では通用しないかもしれないわけだ。なら、あなたにっての確かなものは、別の人から見れば非常識になる可能性がある。もちろん今や情報が行き交う世界だから、多少の修正は不可能ではない。けれども、情報もまた取捨選択している基準そのものがあなたにとっての確かなものであるのならば、ある種の受け入れがたい情報はあなたの心には届かないままだろう。
判断
そこで示唆されることは、あなたの判断が絶対ではないということだ。あなたが良かれと思ってやっているそれも、誰かにとっては余計なお世話となる。あなたの善意が踏みにじられるのはそういうことが原因であることが多い。逆に言えば、あなたが悪意をもって嫌味を示したところで、誰かにとっては褒め言葉に聞こえる可能性も含んでいる。とにかく善悪の基準なんてものは、よくよく考えてみれば絶対値が曖昧でしかない。悪さの程度をどのようなものさしで測るのかという参考事例は、例えば刑法においての量刑相場から類推することができるわけだけれども、その量刑も比較的軽すぎるという批判はやまないわけだ。ましてや当事者である被害者側からすると、それがどんな判決であっても受け入れがたく思うのは感情という上乗せがされている分、避けようもないことだね。そこで第三者が入って生まれも育ちも違う人に裁いてもらう仕組みになっている。そこには納得を重視するよりも、むしろこれまでの前例と比べての話にとどまってしまいがちになる。
選択肢
ここで注意しなければならないのは、あなたが感情的に判断するにしても、それはあなた自身が設定した基準ではないということだ。すなわち世間で言うところの常識だとか、共感という曖昧な概念はすべてたまたまの境遇によって生み出されたものであるということだね。そこに絶対的なスケールはそもそも存在しない。所変われば品変わると言われるように、たとえば国が違えば全く問題がない場合だってあり得るわけだ。世界共通の概念がありそうで実はないといっていい。それなのにあなたの世界では確固たる掟があるのも事実だね。だから許せないと怒りを感じるわけだし、なんとなくもやもやして納得がいかないことばかりがあなたの周りの出来事なんだ。けれどもその判断基準があってないようなものだとすれば、あなたは何を拠り所にするだろう。もしくはその誰かの姿から醸成されたものさしを捨てられるのだろうか。それは直感と呼ばれ、そうは言ってもなにか確かなことがなければ何も判断することができなくなってしまうことを意味する。だからそれを大切にして生きることもまた選択肢の一つとなる。ただそれに囚われすぎるのをやめるという選択肢も同時に生まれるわけだよ。