もうそこにはいないよ
どこへ行ったの?
好きだった人も今はもういない。楽しかったことも今はもう終わった。とてもつらかったこともあったけど、それも今はそうでもない。とても悔しかった日があったけれど、気がつけばかなり昔の出来事になってしまっている。今も悔しさは変わらないんだよと、当時に比べて極めて冷静に語ることができたりする。いろんな楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、いろいろあるけれど、それは「あった」ことに変わって過ぎ去ってしまうね。今はもう手に取ることもできない。自分の世界ではとても重大なことも、あまり気に留めないこともみんな、この現れては消えることをずっと繰り返しているね。気のおけない友とあれほど笑って楽しかった時間も、じゃぁ、また明日と告げて、今は静かに過ごしている。不思議だね。さっきまでの友はここには見えない。きっとあいつも今日が楽しかったと思って一人で過ごしているに違いないと思っている。
記憶だけがある
これは何を意味しているのだろう。ライブハウスで聴いたあのごきげんな曲。確かにご機嫌だった、最高だった。けれどいまここには流れていない。あらゆる体験はすべて流れ去って掴むことさえできないね。手を伸ばして手を握っても、手を握った感触は記憶にあるだけで、今はその手はない。いつもそう、みんなそう、全部そう。何か確かなものを掴もうとするけれど、なにも掴み続けることなんてできないね。あのときの、いっときの感覚を忘れないように、一人で何度も繰り返し再生している。まるで、ライブの動画や写真を見ているかのようにね。
残るキズあと
でも、例えば転んで身体にケガをしたとき、その痛みとキズあとはしばらく残るね。名誉の負傷だなんて語り草になる。大きなキズあとは痛みは消えてもしばらくは共に生きることになる。この世に生きた証のように見ているね。もちろん、あの事故さえなければと度々思い出して嫌な感情になるけれど、大きな出来事は今はもうどこにもない。終わったことだとそこで知るんだけれど、自分の中ではずっと消えないね。おかげで少々不自由な思いをするんだけれど、そのせいかかなり慎重になって、それを体験していない人に比べて安全な暮らしができていたりする。消えないキズあとはしばらくそばにずっといて忠告してくれる相棒のようだね。忌々しいキズあとも、やがては人生のパートナーのごとく変わっていくのかもしれない。
見えないだけ
何度も何度も、何かをようやく手にした気になりながら、この世は何かを少しずつ理解する。そうして最後は、やがて消えゆくこの身を知る。その流れに抵抗してもがきながら、何とか形として留めておこうとすればするほどだんだん難しくなるのは、少しずつそういう我が身を受け入れるための準備期間だね。形を変えて見えなくなるけれど、心の中にはしっかりとそばにいるね。ずっと見てきたいつもの風景と何も変わらない。それでいい。それだけでいいんだよ。儚い夢の中を彷徨い歩くことが、人生という奇跡なんだからね。現れては消えていく。それが止まった時は生きることがなくなってしまうとき。生きることはダイナミックに姿形が変わっていくことそのものなんだよね。