当てにならない感覚

日々

見える

あなたはまっすぐに物事を見つめている。それは光と影が織りなす映像として認識しているわけだ。目に見えないものであっても、あなたの心の風景としてその映像を見つめている。そうやってイメージがあなたの世界そのものだね。もちろんそれだけではないんだけれども、総合的に一番あなたの心を支配しているのは心象風景と言っていい。実際の目の情報を元にして、それ以外の印象をすべて映像化しているわけだ。だから、その映像を変えることはあなたが変わることで可能となる。逆に思わぬ風景を見てしまうこともあるだろう。でもその直後にあなたなりに補正された映像があなたの見ている風景に置き換わってしまう。同じ光と影の情報なんだけれども一旦必ずあなたという処理が行われてしまうことは避けられないね。同じ場所から同じ風景を見たとしても、その印象があまりに違うのもそういう理由からだね。

聞こえる

音は空気の振動によって伝わることは知っているね。誰かの声があなたの耳に届くとき、それも一旦はあなたの印象という処理を経て、それをあなたが認識することになる。同じ言葉を投げかけられたとしても、なんてことのない言葉だと処理するのか、聞き捨てならんと怒りに震えるのかはあなたの処理次第ということになる。あなたは無意識にそれを日々繰り返すことで、言葉そのものの内容や意味よりも誰がそれを言っているのかの方が大きくなるのはそのせいだね。同じ言葉を投げかけるときも、あなたにはそんな意図は微塵にもないのにも関わらず誤解されるのは、あなたが言ったという現象がそこに加わって相手に処理されるからだ。あなたがその処理回路を止めることができれば、少なくともあなた自身が余計なそれ以上の意味を盛ってしまうことは避けられる。余計なことはすべて止めてそのままの言葉を意味として捉えることができれば、不要な詮索がなくなり、その結果争い事が減るかもしれない。

臭う

視覚や聴覚で物事をまっすぐに捉えようとしても難しいのはそういう仕組みだからだ。それらが複合的にあなたの印象を決定する。そして嗅覚においては、なんとなくきな臭いとか胡散臭いという表現があるように、もはや実際には存在しない匂いを生み出していることからもわかるように、アリもしないことを生み出す側面が強いわけだ。そうやって最終的な真偽においての判断はあなたのその風景が根拠となっていることに注意しよう。それらはすべて幻想であり、実は実際に得た情報がかなり加工されているということだね。それぐらい物事をありのままに捉えることは困難であり、その意味では人間の五感なんていうのは曖昧に動いているわけだからね。そもそもそれらの感覚器官は誰かを判断したり訝しむために備わったものではなく、あくまでもあなたを生きながらえるための安全装置なんだからね。それを濫用するとどんどんとおかしなことが起きてしまうから取り扱いを間違えないようにしないとね。