独り立ち
自己責任の罠
自分で何もかもできる人は優秀な人だと世間では言うね。大抵のことはしっかりとひとりでこなす。仕事も家事も遊びも旅行も趣味もなんでも器用にこなすなんて憧れの存在かも知れない。そのせいか、現代の社会では「一人前」という意味の非常に狭い範囲にスポットを当てた「自己責任」という言葉がひとり歩きしているように見える。全部しでかしたことはその個人のせいという部分にフォーカスして、今や多くの人を悩み苦しめている。その言葉を使った瞬間に自らも追い込まれて身動きができなくなってしまっているね。よくよく考えてみて、この社会で生きることは身近なことだけに注目すれば、一人暮らししていれば仕事の段取りも通勤も家事も誰も助けてくれない。そう思って、歯を食いしばってひとりで生きている気になっている。おそらくそう思い込んだのは「社会人」なんて呼ばれる年齢からが多いんじゃないかな。そう、俺もようやく「一人前」で「独り立ち」したと。それって本当のところはどうなのだろうね。
生まれたての赤ん坊
赤ん坊の時は、親の庇護と深い愛情のもと守られて成長してきた。もちろん幼少期の家庭環境はすべてがそうであったわけではないだろうけれど、何らかの助けがあって今どうにかこうにか年齢を重ねている。何も持たない、何もできない状態で生まれてきたのは間違いないだろうね。まぁ、その時の記憶があるわけではないけれどね。そうして、身の回りのことができるようになったわけだけど、よく考えてみると全部最初からひとりだけでやっていることってそんなに見当たらない。便利な道具や機械があって、それを手にするのに労働して稼いだのは事実だけど、そんな便利な道具を自分で一から作り出したわけではない。都会の一人暮らしを多くの人がそれほど苦もなくできるようになったのも、24時間手軽に食糧が手に入る社会があるからだし、ライフラインの水道や電気、ガスなども昼夜問わず安定して供給してくれているからだよね。いわゆる「社会的分業」という仕組みのおかげで、ひとりでも生きていけると思っている。
ほとんど誰かのおかげ
そう、「一人前」として生きていけるのは、普段気にも留めない「誰か」のおかげ。誰とも話さない1日があったとしても、ちょっとコンビニに行けば最少限度の会話が生まれる。ひとりカフェで作業するにも、最小限の関わりがある。そんなのなんとも思っていない不思議な存在が「一人前」のわたし。そこだけ注目し続けて、自分を支えてくれているものはすべて見ていない。で、誰かに語る「自己責任」という乱暴な言葉。その言葉は途端に跳ね返ってわたしを苦しめている。まるで自打球で痛がっているバッターのようにね。もし声をかけるなら、自分でも他人でもどんな人に対しても労う言葉の「おつかれさま」「ありがとう」という言葉の方が世の中の真実を表しているはずだよね。
ひとりでも幸せ
ひとりだとどれだけ優秀であっても、できることは少ないという事実。二人になるとできることが多くなるね。もっと寄り添い合うとひとりでは到底かなわない結果が生まれる。それが現代社会における関係性ということだね。「自己責任」という裏には、「ひとりだけど誰よりも頑張っているわたし」の裏返しの言葉。ひとりでも幸せなのは、多くの人の支えがあるからこそ。それを忘れないようにしないとね。支えてくれている人に対して「ありがとう」がなくなると、それは全部わたしに跳ね返ってくるのはそういう仕掛けを見逃しているから。ひとりだけどひとりじゃないってのは、そういうことなんだよ。そうしてひとりを楽しめるのも、寂しく思ったりするのも、実は多くの人の「おかげさま」なんだよ。こんなに幸せなことは他にないね。