人間様
人間
人間は社会的動物である、なんて言う言葉を聞いたことがあるだろう。そう、人間という動物とは違った次元の生き物であるという認識がすべてを苦に変えているとも言えるね。ネコは昼間から好きなだけ寝ていたりする。それを見て羨ましいと思っているあなたがいる。しかしながらおそらくネコは自らがネコであるという意識は持ち合わせてはいないだろう。ところがあなたは動物であるという無意識な自覚はあるものの、それ以上に人間であるという意識がなぜか高いわけだ。それもできれば崇高な人間でありたいという欲求が強いね。それはおそらく動物と人間の最大の違いであって、それがあなたが特別だという証拠でもある。人間も動物的な側面を持っているけれども、それ以上に特殊な存在だという根拠そのものは、あなたがそう思っているだけなんだけれどもね。だからこの世は幻であって実体とは違うなんて言われたところでそう簡単には受け入れがたいわけだ。
生き物
そんな特別で崇高な人間様であっても、いつかその人生にはネコとおなじように終わりがあることを感じている。腹が減ったら戦ができぬ、なんて言われるように食べることも欠かせないし、眠い目をこすりながらも我慢して働かなければならないね。その分休日という時間になったら死んだように眠り続けてなんとかバランスを保とうとしている。それらはあなたが動物ではなく、崇高な社会的存在であるという思い込みからそうしないといけないというルールを自らに課しているわけだ。眠いときには眠り、腹が減ったら何かを食べるなんていう自由はそこになく、それを制限することでようやく成立するわけだ。好きなように生きたらいいのに、そうもいかないようにわざわざ仕掛けている。そんな中で気づきだの悟りだのという新たな概念、すなわち本来そこにないものをあるかのように生み出しているのと同じことだね。
気づき
そこにあるべき姿があるから苦が生まれるという単純な原理が導かれることに気づくだろう。あるべき姿を手放せば、あなたは動物になる。それを文明社会では未開の野蛮人だと定義したりしているわけだ。気に入らなかったら誰も見向きもしないような仕事でも、我慢してやりのけることが崇高なことだし、本能的にはやりたいようにやってしまうことを理性によってコントロールすることが人間が人間たる意義だと決めている。あなたはすでに自然そのものからどんどん乖離しているとも言えるわけだ。野山の草木をみて美しいと愛でることが崇高な人間の嗜みだとして、実はその自然とあなたには境界線もなくすべてつながっているという本来の姿がそこにはない。路傍の雑草を見てあなたはそれと同じだとは気づかないのは人間という概念がそうさせている。あなたの口の中は自然界と同じなんだけれども、あなたの口の中、すなわち体内はもっと清らかで清潔だと信じているのもそうだ。草木をみてそれはわたしだと感じられないのはおそらく特別だと思い込んでいる人間様だけだろうね。