よ〜く考えよう
ありがとう
この世の本質はありがとうの連鎖でできている。それが貨幣という代替手段で交換されて続けているわけだ。お金はその手段であって目的にはならない。にもかかわらずそれを学ぶ機会を意図的に少なくされてしまっている。学校でも習うことは少ないし、未だに貯蓄は美徳だと思っている人が多いわけだ。自分勝手な質素倹約令が未だに根強いのもそこからのアップデートができる学びがないからだね。だからお金で苦労している人が大半なのはそのせいだ。けれどもそうなっているのにも関わらず、何をして良いかもわからずじまいで途方にくれ、欲望のまま浪費するだけの状態から脱却できないのもそのせいだね。そうして必死にためたお金をうまく使えずに、額面が目減りすることばかりが心配で夜も眠れない日々が続いている。損か得かで日が暮れて、気がつけば人生も終盤に差し掛かって慌てたとしても後の祭りとなるわけだ。
価値
お金そのものには価値はない。よく言われることに銀行の通帳にはデジタルデータとしての記録しかないし、実際の貨幣に変えたとしても、100円玉は100円のコストがかかっているわけでもない。むしろ1円玉の方がそれ以上のコストをかけて作っているわけだ。それでもなんだかおかしいと気がつく人は稀で、貨幣を作るコストなんて誰も気にもかけないだろう。お金は感謝の代替物でありいわばメモ書きみたいなものでしかない。それを多くの人がそうだと幻想を抱くことで1万円札は1万円の価値があると信じているだけのことだ。結局のところ実際1万円札を食べて生きながらえることはできず、それを交換することで美味しいごちそうにありつけるわけだ。貨幣の歴史は思っているほど長くはなく、人類の歴史から比べてもほんの最近でしかない。それまでは物々交換が主流であり、みかん3個と魚1匹などのそれぞれの所有者の合意でのものであったわけだ。しかし不便なことにりんごがほしいと願ったところでそれを持っていなかったら交換できない状況が長く続いたわけだね。
集団幻想
いろんなものに交換できる便利さによって今日の資本主義経済が発展してきたわけだけれども、お金さえあればなんでもできるという状況になったのもそれもつい最近のことだし、実はそれほどでもないという人もいるね。お金以上の価値があるなんて言うこともある。今日においては命でさえお金で交換できるような世の中だ。けれども、それでも生き様とか佇まいなんかはいくら札束を積んでも得られなかったりするね。そうすると今度は逆転して、お金に変えられないものは価値がないと決めつけるようになる。それが現代のビジネスシーンであり、無理・無駄・ムラをなくすというスローガンが掲げられている会社が残存しているわけだ。コスパとかタイパなんていう実体のよくわからない言葉に今度は価値が生まれていく仕組みだ。そう価値とは集団幻想でしかないわけだからね。そうした時代背景の価値観に翻弄されて、これまた幸せとか不幸とかも再規定されている。あなたがなんとなく採用しているものさしは、実は一つではないことには注意した方がいいかもしれないね。