主体とは

日々

主体性

自ら進んで決められたことをやるのを自主性があるという。一方で混同しがちな概念として主体性という言葉がある。決めれられたり与えられたことではなく、それすら自分で決めてやることを主体性と言うわけだ。自主性があると他人から褒められて評価が上がったりするけれども、主体的に動ける人は誰かの評価とは全く無関係ということだ。ややもすれば、そんなことして何になるとか、どうせ失敗するとか揶揄されることが多いかもしれない。そんなまた夢みたいなことと言われ続けるのが主体的に動いている証拠になるかもしれないね。ちょっと皮肉的だけれども、主体とはあなたのことであり、あなたがすべてを問い、それに対する答えも自ら探求していくわけだから、誰かに合わせているわけではない。指示されたり与えられることに慣れてしまっている現代の大人は、だから失敗を恥とするわけだし、仮にそういう境遇に置かれたとき、指示や課題そのものが悪いとさえ嘯くわけだ。

枠組み

そもそも自然界において、やるべき課題や与えれた枠組みなどは何一つ存在しない。それだと課題を設定できないから、その枠組を誰かが作っているわけだ。だからいつもあなたの目の前には解決すべき課題が山積みになっている。しかし本当にそれらはあなたにとって必要なものかと問われたらどうだろう。これをやることで収入が得られて、誰かが喜んでくれるから仕方なくやっているわけだ。もちろん誰かに役に立つというのが働くということであり、それで喜ばれるからその対価を得られるわけだ。けれども、その枠組そのものはあなたが自ら生み出したものではないことが多いだろう。与えられた条件と環境においてベストを尽くすというのがあなたにとっての誠意だろう。その姿勢や結果に対しての感謝があなたの生きる糧になっている。だからそれはそれで悪くはない。けれども、いざ自ら問いを立ててそれを解決するという部分では、いつの間にか途方にくれるぐらい苦手なことになってしまっているね。

本当の自由

そんな所与の環境においてベストを尽くすことができることが、有能さだと植え付けられてしまった彼らは、その狭隘な世界の中での競争に明け暮れているわけだ。豊かさや富が幸せとなり、社会的な地位や立場が自慢できる宝飾品と等しい。それらを得るためにそれこそ命がけで争いあって人生の大半を終えるように仕向けられている。幸せとはそんなものの中にはないことに気がついた一部の人は、そのステージから降りてしまうわけだけれども、そんな人に対して負け犬だと揶揄している。本当のところどちらがどうなのか、誰にもわからないというのにね。正しさを求めるから間違えるというのに、たいていの場合は自らがメジャーであり正しいと信じて疑わないままだ。枠組みでさえ自らで生み出せば良いと気づいた人は、さっさとそれを生み出せるかというと実はそうではない。なぜなら今まで誰かの枠組みの中の優劣合戦に明け暮れてきたが故に、ルールさえ決めてもいいと言われたところでどうやっていいかわからないからだ。そう、本当の自由を知らないまま生きてきたわけだからね。