この世で一番
豊かさ
あなたの理想は、心の豊かな状況になりたいとぼんやり考えているね。辛い毎日よりも明るく楽しい毎日であればいいなと思っているし、貧しさによって制限される生活よりも、豊かさであふれて何でもできる暮らしが良いと思っている。あなたはそうやってあなたが認識している現状を何かと比べて、あっちのほうがいいなと思っている。豊かさは何も物質的なものだけではなく、精神的なものもそうだ。人から蔑まされるよりも、人から羨ましいと思われる存在でありたい。要するに自分が特別な存在であって、今ここにいても大丈夫だという承認欲求をどこかで満たされたいともがいているわけだ。究極の豊かさなんてものは、結局その程度のものとも言える。ちやほやされたり愛されたり、大事にされたり、脚光を浴びたりすることに喜びや幸せをそこに求めているだけだね。貧しいけれども心豊かな人でありたいのも、どうにかあなたが一番ステキに見られたいという衝動だと言ってもいいだろう。
自己満足
そうだから、身も蓋もないことを言えば幸せになりたいという欲求はありもしないあなたという幻影を際立たせたいと思っているだけのことだ。だからたとえそれが一部その通りになったとしても、あなたはさらにそれ以上の何かを探してしまうわけだから、きりがなくなってしまうわけだ。他人から見てあなたはもう十分それを達成していると言われたとしても、当の本人はそれに気が付かないことが多いのはそういうことだ。逆もまた然りで、この世で一番不遇でなんて悲惨な人生なんだと嘆き悲しむのも、結局のところは同じ視点から生まれている。悪ぶって大騒ぎして世間の注目を浴びるのも、特別な存在としてあなたを際立たせるためである。注目を浴びている有名人の不祥事をことさら批判して貶めようとするのも同じ衝動からきている。それだけ承認欲求が満たされない人々が多くなっているのと同時に、それらが実は何人たりとも神の元では平等だというキリスト教的な視点から来ていることを知らないままでいるね。
承認欲求
そうやって承認欲求が現代社会においては多くの人にとって欠乏していることが多い。その欠乏を詳らかにしたのはSNSというネットワークの拡大にも要因がある。だから殆どが恨み妬みツラミの呪詛のような投稿に溢れているわけだ。一方で差別を廃絶しようと声高に叫ぶ人が増え、教わった正義を振りかざす人が後を絶たない。ちっぽけな個々人のルールを誰かに押し付けることで溜飲を下げるような人が増えているのもそのせいだね。それらはすべて、まさに承認されたいという欲求からくる行動でしかない。そんな中で幸せになりたい、もしくは少なくとも自分は正しいしそうでありたいという欲求が叶いにくい社会構造でもあると気づくわけだ。これからはそういう承認欲求が自分らしさという言葉によって変換されて、そうである人が一番幸せなんだという幸福感が多くの人を支配していくようになるだろう。それがグローバリゼーションによってもたらされた反動とも言えるローカリゼーションであるとも言えるかもしれないね。