自然と科学
自然
自然体でいることが今は一番難しいわけだ。あれこれと支配下において思い通りにしないと、どっか遠くへ飛んでいってしまうという恐怖から、手放せと言われたところでそんなことは怖くてできない。逆に握りしめる手にさらに力が入ってしまうだろう。あなたはそうやってあれこれといろんな悩み事に囲まれてしまっているわけだ。あれをうまくやるにはこれがだめになるとか、同時に叶えようとしたところでそううまくはいかないどころか、同時に両方とも失ってしまったりもする。そうやってあなたは不自然な毎日を送ってきたわけだ。そうすることでさらに不自然な問題ごとに囲まれてしまうから目も当てられないね。自業自得とはよく言ったもので、いつの日から不自然に生きる道を選択した結果、あなたは考えても仕方がないことばかりに翻弄され続けて今に至るわけだね。
経験
結局のところそういう状態だから、一周回って同じことの繰り返しばかりで嫌になっているだろう。Aプランを選択したところ、それはうまくいかずなら代替案のBプランに途中で変更したとしても、そうすると最初のAプランよりも結果が芳しく無くて、結局もともとのAプランを改善する羽目になっている。なんだ、結局同じことの繰り返しじゃないかと思ってわざわざ苦労して変更したBプランは全くの徒労に終わったといって嘆いている。でもそれは違うね。結果最初のプランがよりマシだとわかって戻したわけだけれども、あなたにはそれ以外のプランを知っているということ。それはまさに経験と呼ばれる生きることの本質を得たということだ。それしか知らないでそうしているのと、それ以外も色々とやってみた結果気がついたら最初に戻っているのとでは全く違うわけだ。だからこそあまり誰かから教わる効率化は避けた方がより良く生きることができるね。すでに知っている人がそういったとしても同じ軌跡を辿ってみることで、あなたなりの経験がそこに積み重ねられるのだからね。
追証
科学は再現性にこだわってきた。あなたが新発見して論文として公表したとしても、あなた以外の他の誰かが査読して追証ができなければ無効となるシステムだ。ところが大規模な自然環境についてはもしこうなったらというパラレルワールドを生成して比較検証することが原則できないわけだ。環境問題にしても地球規模のスケールとなると、その原理に従えばもう一つの全く同じ地球が必要となる。そんなことはシミュレーションでしか再現せず、それもかなり限定的でもしかすると変数が偏ってしまうのは避けられない。一方で科学主義の前は宗教を信じていた時代も長くあった。そもそも神話の正当性や神の存在などは現代においても追証することなんてできるわけがないのだから、それを受け入れるかどうかという選択だけになる。しかしながら長年続いていて、実は今も根底に根強く残っているのだから、それらの比較は意味がないとしても社会の根源であることは認めざるを得ないだろう。結論的には自然そのものをどう捉えるかというあなたの問題となるわけだよ。