自然にいること
笑って過ごす
どんな些細なことであっても、深刻な悩みとなる。逆にそんなこと起こるわけがないと笑う種にもなるわけだ。あなたはどっちを選ぶのかだけの選択肢が残されている。いつも笑って過ごすのか、深刻な顔をして不安な毎日を過ごすのか、それだけのことだ。自然に生きることが一番中庸であって、心配しすぎるのもふざけすぎるのも結局のところ不自然なことだ。自然に生きるということは、笑うべきことは笑い、心配なことは対策を打つ。ただそれだけのことなんだけれどもこの塩梅がとても難しいと感じているだろう。ときには心配で夜も眠れない日もあるだろう。でも結果はそうではなかったのなら笑えばいいだけのことだね。それが自然に生きるということだ。無理して心配しないでいようとか、強がったり恐れたりしながら毎日をアトラクションのように過ごすことが生きることそのものなんだ。
無理
心配しないでいろ、と言われても心配なあなたにとっては無理な話だろう。あるいは面白いと思っているのに笑うなと言われるのも同じ話だ。だから愉快に生きるということは、ありのままを生きるということである。心配ならばとことん心配すればいいし、そうでもないかと思ったならばそこまででいい。すべてをありのまま受け入れるということが自然そのものだと言える。だから、心配があるから笑顔もあるわけだし、その逆も然りなんだ。だから結局の愉快に生きようとすれば、あなたが感じるがまま真剣に生きるということと同義だね。悲しいことを無理して笑うことは不自然だし、ごまかしでもある。悲しいときは悲しいといえばいいし、苦しいときは苦しいと思えば良い。けれどもすべてがそうだと決めつけるのは早計だね。喜びをやがて感じることができたなら、精一杯喜ぶことが自然なことだ。嘘をつかず、ちょうどいい具合にそのままを表現すればいいということだね。
福徳円満
苦しいときも、悲しいときも、あなたには笑う力が備わっている。どんな状況においても愉快になることができるということだ。それが自然そのものであり、わざわざ悲劇の主人公を演じることができるのもその力のせいだね。あえて悲しいときは悲しいといえばいいだけなのに、わざわざあなたを際立たせるためにさらに演出する必要はない。おそらくそうするのはそれとは全く別のなにかを目論んだものであるからだね。嘘、大げさにすることなく、そのままを感じていることが自然であり、それに脚色を入れた瞬間にあなたは自然の流れから大きく外れてしまうわけだ。悲喜交交の人生において、そればかりだと言い切るのは、かえって不自然なことだね。どんな状況においても楽しいことや喜びは消えることもなく、悲しみも不幸も消えることはない。それが大いなる自然の動きであって、それ以上でもそれ以下でもない。悪い癖は目立たそうとしたり、下心によって自然を不自然にすることであって、ありのままそのままを嘘に変えてしまうことなんだよ。