旧型
探求
最近自ら問いを立てて、それを追求して自分なりの答えを探すという探求という言葉がよく聞かれる時代だね。これまでの問題集の後ろに模範解答があるような予定調和な学習ではなく、予測不能な変化の激しい社会を生き抜く力として注目を浴びているわけだ。社会がゆっくりと変化するような状況においては、前例主義やそれに伴う正解主義として、先輩方の模倣をしていけばなんとなかったわけだけれども、もはや状況が刻々と変化し続けるような社会環境においては、かつての正解は通用しないどころか、ややもすれば不正解になってしまうからだ。もはやこれまでの先人の体験も必ずしも当てはまる問題が少なくなっていく時代だとも言い換えられる。親が思っている幸せな人生と、これから迎える社会の中心になる子どもたちの幸せが全く異なってしまうという世代間のギャップが思っている以上に大きくなりつつあるのかもしれないね。
学習
そうやって教科書どおりに暗記して模倣したとしても、今の子供たちが成人して社会の中心になったときにはそれが活かせる環境であるかどうかは誰にもわからない難問となったわけだ。そんな彼らに旧式の親たちが従来のテストの点数ばかりにとらわれて、それによる偏差値というそもそもよくわからない基準を追わせたとしても、それがおそらくは陳腐化してしまってなんの効果も発揮できないかもしれない。なんとなくそれが肌感でわかったとしても、親や大人はそれ以外の方法を伝えることができないわけだ。だから声高に学習する内容を変えなければならないと言われたところで、正直なところどうしたらいいのかわからないというのが本音のところだろう。そうは言っても、とりあえず自らの成功体験を追いかけさせるしかやり方を知らないからね。そこからアップデートできないとすれば、サポート終了した電化製品やスマホと同じと言ってもいいかもしれない。もはや「使えない」のだからね。
変化の中身
社会の問題を解決することでビジネスが生まれ、ありがとうという感謝が貨幣価値に変わって交換されるのが現代の資本主義の根幹をなす。しかしながらその正解が所与のものではなく、簡単に言えば今までの正解が通用しなくなりつつある。だから旧来の職業はどんどん廃業に追い込まれている一方で、気がついたらそんな職業は子どもの頃には考えられなかったというものも増えているね。世界情勢も刻々と変化し、親たちの子どもが同じこの国で就職して働いていることすら疑わしくなってきた。それほど高い給料でもない仕事は気がつけば海外の人に取って代わられているし、料理を運ぶかかりもネコを模したロボットになっていたりする。もはや答えはAIに聞けば即座に提供され、ど忘れした知識はスマホに聞けばなんでも教えてくれる。そんなかつての夢のような世界が確実に押し寄せてきている。探求することすら何が探求なのかを探求することすら忘れて、どこかに答えがあるのではないかと探すクセがついてしまっているのはもはや旧型なんだろうね。