立体と平面

日々

まだ見ぬ世界

あなたが言葉にできることがあなたの世界を構築している。まだそこにない未来は言葉にできない。だから未来であり、今の貴方には微塵にも想像すらできないわけだ。ただ想像できないという感覚だけでワクワクするのは、「想像できないものが来る」という言葉から受けるイメージでありあなたの世界に彩りを添えるなにかであるだろうと想像できるからだ。もしそれすらも不可能ななにかであれば、あなたの世界には「ない」ものとしか存在できない。なんだか変な言葉だけれども、ないというものがあるような感じになるね。それは言葉では言い表せないなにかであるけれども、その尻尾すら掴めないので「ない」としか認識できず、それもないがあるというしか方法がないわけだ。この時点であなたは何かを述べることができず、そして表現することも不可能だね。あなたが言葉にできず、まだ見えてもいないそれをなんとなく表現するとすればそうなってしまうだけのことだし、そうするしかないわけだ。

言葉

あなたの世界は言葉でできている。だからこそないがあるとか言うしか方法がないし、無理やりそう表現したところで、なにか新たな世界が広がることもできない。それが言葉になったあとになにか変化をもたらすことができるわけだ。だからやっぱりあなたの世界は言葉がないと成立しないわけだね。言葉以上のなにかを感覚としてぼんやり持っていたとしても、あなたがそれを認識するためにはとりあえず言語化しないと始まらないわけだ。思考とか想像の限界はそこにあって、言葉にならない感情を感じてはいてもそれ以上の展開は望めないのはそういう仕組みだからだね。ということは、おそらくあなたの感覚としても、表現できたり思考できたりするあなたの世界の全体の割合としては、とても少ないとわかるだろう。言葉にどれだけ尽くしてみてもおそらくその1割も表現できなかったりする。かつての文学者が格闘したように、この世界を言葉化するとしてもあなたの感じている得も知れないものに対しては全く持って無力となるわけだね。

論理的

だから論理的思考が至極の技だというのは、ちょっと違和感があるね。言葉にできないそれらを言葉以外のなにかでなんとか表現できないかと試行錯誤してきたのが芸術だ。それらは、なにかたくさんのメッセージが包含されているのだけれども、言葉ではないから受け取る側のイメージに委ねるしかない。けれども、それがうまく伝わると喜びを感じるのは、あなたの世界が言葉以外で構築できる可能性をそこに感じるからだね。日常のほとんどは言葉のやり取りに終始しているのも、その手段が一番低コストだからに過ぎない。それ以外の方法を選択するには、時間も費用も莫大になってしまうからね。それでもないものをあると伝える手段の一つとしては、過去から連綿と受け継がれているし、それがなくなり合理性や論理性だけの世界がどうなるかもあなたはぼんやりとわかっている。言葉にできない思いが実はほとんどであり、それを言葉化した瞬間にその深みが消えてなくなってしまう。それでも低コストに伝える手段としては言葉はとても便利だね。だからといって論理性とか言葉化だけに特化してしまうとあなたの大切にしている思いはほとんどが消えてしまうから注意したほうがいいよ、