誰かとあなた

日々

物語

あなたにとっての成功体験にしても、失敗体験にしてもそれをもう一人のあなたが見ていないと成立しない。何を言っているのかというと、あなたの普段の生活がとても軽やかで楽しいとしても、逆にとても憂鬱で苦しいとしても、それらをそうだよねと同意してくれるもう一人の誰かが必要なわけだ。そう、あなたはあなたとあなたを見ている人という二人を常に行ったり来たりして認識しているわけだ。本当にあなたがこの世で一人ぼっちであれば、おそらく楽しいとか苦しいとかそういう感情もなくなってしまうだろう。なぜならそれを見ているもう一人のあなたがそれを物語として認識することが難しくなるからだ。楽しいとか悲しいとかはなにかと比べて初めて成立する概念であって、あなた以外の何もなければすべてはあなたとなるからね。美味しく思って食べているそれも、ちょっと苦手だと思っているそれも、同じ食べ物としてしか存在しないし、そこにこだわりもないだろう。たとえあったとしてもそれがこだわりだとも気がつかないね。

あなたは誰

そうであるなら、あなたは何者で誰なんだということになる。比べる対象があなた以外になければあなたとあなたを見ている人の二人の間にはギャップがなくなってしまうから、もしかしたらあなたという自我すらも危うくなるわけだ。孤高の一匹オオカミも、他のオオカミがいて初めてそうなれるわけだ。本当に一匹だと一匹という概念すらそこには生まれ得ない。まだ見ぬあなたと同じような生き物を目の当たりにしないと何者でもないわけだ。すなわち存在とは他者がいて成立する概念であり、物語はそれを見ているものとそんなあなたを見られていることが必要だね。ということは、誰がどうだとかそんな属性は全く問題ではない。誰にこだわることができるのは、あなた以外にもあなたのような存在がいるという前提がないとだめだからだ。そんなことはわかりきっているだろう。現実問題として、あなたが一人ぼっちではなくむしろ付き合いたくもない人たちに囲まれて苦労しているんだよと反論するだろう。

遠慮

だからやってみたいことがあれば、やってみればいい。そんな簡単なことでさえいつの間にかできなくなっている。その遠慮や心配もまたあなたという誰でもないなにかのせいだね。それはあなたという物語にはとても重要なことのように感じているかもしれない。けれども誰がどうというのもそもそも幻想だね。あなたもあなただけで成立しているわけでもなく常にあなた以外を自ら生み出している。だから直感的に反応することしかできないし、それ以上の何かを求めてしまうからなにもできないままになるわけだ。それはあなたではなくなっている。我慢することが美徳なのは、もう一人のあなたに遠慮しているからであり、やりたいことをやれないのも同じ構造だ。さらにそれらは実在しない概念上の存在でしかない。あなたでなくても誰であってもそんなことも実は何も関係はないとしたら、あなたがそこで躊躇する理由などどこにもなくなるだろう。一番恐怖に感じている失敗とか恥なんかは、そうなって傷つくのは一体どこの誰なんだろうね。