幸福学原理

日々

思い込み

最近どうも調子が悪いだとか、うまく行かないことが多くなったと嘆いているけれども、それは勘違いだね。あなたは生まれたときから同じことを繰り返しているだけであって、うまく行ったというその記憶は、うまく行ったと思い込んでいただけのことであり、最近そうではないというのも、そう感じているだけのことだからだ。同じようなことを経験して、それが上出来だと感じたり、そうではなくイマイチだと感じたりするゆらぎだけがそこにある。それまでも今もこれからもおそらくは大いに変わることはなく、あなたがそれをどう受け止めるかだけの問題で上出来だったとか、うまく行かなかったとかと感想を述べているだけだ。あなたはこれまでもこれからもそれを続けていくだろうし、あなたの中ではそれは大問題だろうけれども現実は淡々と同じことの繰り返しを出現させているだけのことだ。

感想

あなたはそれをうまく行ったと思うのも、そうではないと思うのもほんの気まぐれでしかない。事実としては何も大いなる変化はないけれども、あなたの方にそれがあるのが真実だね。だからどう思うかというクセをうまく利用すれば、あなたのやることなすことすべてが首尾よく順調だと感じられるだろうし、それができないままだとなにもかもが失敗の連続だと感じるだろう。同じことを見たとき、あなたが思うそれと、誰かが思うそれとは実は全く違っているわけだね。同じ景色を見て、いたく感動する人もいれば、いつか見た何の変哲もない景色だと思う人がいるようにね。そしてあなたにも経験を通して同じ風景を見たとしても、その感じ方に変化が訪れるわけだ。以前はとても純粋に感動していたそれも、それを知っている今のあなたには取るに足りないつまらない日常の光景となるわけだね。それが実は幸せの構造なんだよ。だから何かを得たり何かを足したりすると幸せになれるわけではなく、どんな状況でもそれをどう捉えるかというだけのことだ。

個人

だから幸せとはどこまで行っても個人的・主観的なそれであって、それを足し算したり引き算したりして計算することなんてできるわけがない。実体のない幸せを1としてそれを感じているひとが10人いたら幸せは10になるなんていう理論はその時点で破綻している。そもそも幸せという幻想が足し合わさったところで社会全体の幸せになるという牧歌的な考えは、現代社会においては一笑に付されるかもしれない。けれどもその功利主義が未だに社会問題として君臨しているのは一体どうなっているのだろうか。それは幸せとはあくまでも個人的・主観的なものであったとしても、それぞれの幸せを感じて生きている人が多くなればなるほど、社会全体の安寧が保持されるという感覚だね。不幸だと思い込んでいる人が多数の社会だとなにかとギスギスして有機的な機能が破綻する恐れがある。ところが幸せで満足度が高い社会であれば治安が維持されるだろうという期待がそこにあるわけだ。幸せも不幸も何をどう捉えるかという社会通念で成立する幻想でしかないことを看破すれば、実はとてもシンプルな構造だと気がつくだろう。