ずっと幸せだった

日々

誰かの願い

あなたが明日楽しみにしていた旅行に出かけるとする。それなのに天気予報は大雨だったりする。そしてあなたはなんてついてないんだと嘆き悲しむだけではなく、どうにか明日晴れとまでは言わないけれども、傘のいらないぐらいの曇りぐらいにはなってほしいと願うわけだ。純粋でシンプルななんの悪気もないのぞみだね。一見そんな願いであっても、例えば農家の人からすれば雨が降るということには別の重要な意味があり、もちろん度が過ぎるのは良くないとしても雨の時期にはしっかりと雨が降ってほしいと願っているわけだ。さて、神様はどちらの願いを叶えてくれるだろうか。せっかく楽しみにしていた旅行だからという願いと、作物のすこやかな生育のための恵みの雨を望んでいる農家の思いがここでバッテングするわけだ。そう、誰かの願いは誰かを呪うことにもなるわけだね。あなたが幸せになりたいと素朴に願うそれと、誰かがそれを望まないことがあるのが複雑な関係性で成り立っている社会ではしばしば対立することがある。

評定委員

たとえばそんなものであれば、旅行なんて娯楽に過ぎないけれども、作物の育成を願う方が多くの人に役立つ食物のためなんだから、そっちが優先されるべきだというのが現代社会の規範だね。最大多数の最大幸福なんて言う言葉を聞いたこともあるかもしれない。多くの人のためになることが善であり、個人的なちっぽけな思いなんて聞く耳持つ必要などないと切り捨てられるわけだ。あなたもどこかでそれはそうだと納得してしまうかもしれないね。たまたま楽しみにしていた旅行だけれども、二度とチャンスがないわけでもないし雨は雨模様を映し出してそれはそれで素敵なことだろう。だからあなたは雨は降るべきだと思うかもしれない。けれどもまた他の人が、人生最後の門出の日ができれば数時間だけでも雨が上がってほしいなんて思っているかもしれない。その数時間ぐらいであれば食物の育成にも大きな影響などないだろう。

一時的

そうやって願いというのは、すべての人にとって叶うべきものであるとは言いにくいわけだ。叶わぬ夢をいつまでも抱きながら今を過ごすというのが生きることであるとも言えるわけだ。たまたまそのときはそうだった、ということであり、永遠に何かが叶わないというわけでもない。であれば、そのたまたまを楽しむことが人生を豊かにする第一歩だということだね。予測不能な状況のなかで、いかにそれらを楽しむ糸口を見つけられるかということがあなたの本当の生き方なんだ。それがわかれば幸せだとか不幸だとか、ついているとかついてないとか、そんなことはどうでもよくなるはずだ。それよりも楽しみにしていた旅行をどんな天候であっても、たとえ悪天候で中止になったとしてもそれ自体をまるごと楽しむことができるならば、あなたはどんな世界であっても強かに生き抜くことができるね。それが一番の幸せなんだから、やっぱりあなたはこれまでもこれからも不幸などになったことは一度もないということだよ。