見えている世界

日々

世も末

たんだん年を重ねていわゆる年長者になると、この世はもはや立ち行かなくなるのではないかという疑念が必ず起きるみたいだね。今でもそれは繰り返し起こっているようで常に末法思想みたいな言説が世の中に駆け巡るわけだ。かつてはノストラダムスの大予言みたいなものが流行ったし、平安時代に遡ってもこの世の終わりみたいなことがブームになったわけだ。そしてこれはあらゆる国や地域でも繰り返し起こっていて、それでも選ばれし者は生き残って新世界を構築するなんてまことしやかに伝えられ続けているわけだ。ここでのポイントは決して絶滅するわけではなく、わずかながらも生きながらえることができるという余白が設けられているところだね。だから我先にとその中の一員になるにはどうすればいいのかと救いを求める構造となっている。そもそもそんな都合のよい言説に付き合うのもどうかと思うけれども、人間の欲望は普遍的にいつの時代も同じ形であると言ってもいいかもしれない。

不安

それはすべて未来への不安から派生する歪みみたいなものだ。将来のことを考えても誰にもわからない。だから考えても仕方がないからやめておけばいいという結論にはならなくて、そんな中でも自分だけがなんとか助かる方法はないものかと多くの人がこっそりと探し始めるわけだ。ここがミソで、誰もが特別ななにかになれるものならなって、自分だけは生き残りたいという本能を刺激する。それであっという間に大きなうねりでもって蔓延するという仕掛けだ。そして一旦それらの洗脳が完了してしまえば、多くの思考を操ることができるわけだね。自己承認欲求というドライバーで動き続けるのがネットの世界であり、SNSで知らない人にも文句を言ったり、噛みついたりすることができるようになった。普段身近な人には何も言えないあなたでも、ネットの仮のペルソナであるアカウント上でのあなたの仮想現実では大言壮語も可能になるわけだ。そうやって不安のぶつけ先を探し求めてなんとか平静を保っている。

覚醒

そのすべてが実は幻想であり、あなたはあなたの知っている世界での出来事しか知らないというのが事実だ。すなわちあなたが見ているその世界がすべてであって、それ以上になにか知らないことがあったとしても知らないことというレッテルすら貼れないなにかは見たり聞いたりすることすらできないわけだからだ。知らないことということを知っているのだから、本当に知らないことはあなたが認識できないからね。今こうしているうちに、あなたの目の前にはあなたが知らない何かが行ったり来たりしているかもしれないけれども、あなたはそれを見ることすらできない。ただあなたが見えている世界はもしかするとほんの一部に過ぎず、もっとたくさんのなにかが今あなたと同じ場所にいるかもしれない。もっと言えばあなたはウィルスや細菌という存在を知ってはいる。そして顕微鏡などでみれば見えることも知っている。でも実際裸眼ではあるはずのものが決して直接はみることができないね。見えているものなんてその程度でしかないわけだ。