鏡の世界
違和感が生まれるとき
ん?そうじゃないんだけどなぁ、なんていう感情がいろんな場面で起こるね。納得できないというか、的外れというかそういう違和感を覚えることで、それをなんとか解消できないものかと日々頭を悩ませている。あるいは、もう全くその通りと思う正論でさえ、その通りで反論の余地は残されていないということは頭でわかっているけれど、なんだか違うような気がする時もある。論理的整合性がーとか言うんでしょ?ええ、それぐらいはわたしも理解できないわけじゃないですよ、なんてすました顔を作っているけれど、そこでそれを大きな声で言うあなたのその行動はどうなのと思ってたりする。正論すぎてなんだか気に入らないのが本音。それは罠なんでしょ?って思うし、そんなことを反論したところで、ほらまた感情論に過ぎないとやっつけられることもわかっているから、その気持ちをぐっと飲み込んだりしてる。納得しているフリをして、大きなストレスを抱え込んでしまう。
本音と建前
社会で人と交わって生きていく知恵として、本音と建前を上手に使いこなす力が必要だと先人は説く。まぁ、みんなが本音で生きるとぶつかって収集がつかなくなるから、心と体は裏腹に行動する知恵だよね。本音と建前はそもそも真逆な関係にあるって思っているね。でもどうして真逆なのだろう。本音と建前が同じになれば、もっとみんなが楽しくのびのび暮らしていけるんじゃないかな。でも社会ってのは厳しいものだ、ぼーっと生きてんじゃねーよ、そういう戦場が社会というものであると、荒波を乗り越えてきたらしい先輩は、知ったかぶった顔でそう言う。理不尽さを飲み込んだ数だけ大人の階段を上るってことなんだって。そうかなぁ?と思いつつも、何度もそういう体験をする事で、とかく世間は住みづらいものだといつの間にか思い込んでしまうね。でもそこにからくりが潜んでいるんじゃないかな。
乗り越えるための苦労
本当はみんな幸せに楽しく暮らしたいと思っているのに、楽々と荒波を乗り越える人を羨んだり、自分と同じ苦労を上手に避けて楽をしている人をやっつけてやりたいとか恨んだりするのはどうしてだろう。本音をポロリと明かしたことで急に攻撃対象に変わってしまったりする根底にあるもの。その裏返しにある本音は、幸せに楽しく過ごしてはいけないという思い込みがそこにあるからだよ。そうじゃないからそれを願う、そのために苦労をして乗り越えた者にしか幸せがあってはならないという思い込みだね。お手軽な社会になってしまうと、それは悔しくてしかたがないと思っているから。だから本音をさらりと言ってしまうような奴は、わたしの苦労を馬鹿にする敵になる。でも、だからといって反駁して言い負かしたところで誰も幸せにはならないこともわかっているよね。幸せの本質はそこにはないってことも心の奥で知っているね。そうやって偉い人ほど苦渋に満ちた顔つきになっていくんだろうね。
願いは叶う
そもそもの前提をひっくり返すとどうなる?社会は辛くて苦しいもので、本音なんてうっかりしゃべったら他の人から総攻撃を受けるという社会がそこに見えているね。その決して本音を言ってはいけないという前提をひっくり返してみよう。みんな本音を言い合って屈託のない和気藹々とした社会が目の前の現実として現れたね。その昔年の願いはいま叶ったよ。そこではみんな心にもないことを言う必要はもうないね。想像できることは人類の最大の強みだね。たまに妄想でもいいから一旦リセットしてみるのもいいかもね。こうなったらいいのに、と思っていることがすべて叶っているとしたらどうよと思いを馳せてみる。そしてその世界をくまなく堪能してみる。すると、それをすでにできている人が少なからずそこにいることに気づくよ。そう、あなたがそうじゃないって思っていることをいつもする人。あなたが好きになれない、なんとなく苦手な人。実はその人こそがあなたの夢を実行している人って気づく。え?気に入らない人がすでにあなたの思いを叶えている人だって?そんなバカなと思うでしょ?でも、嫌いだと思えば思うほど、あの人の存在にあなたはどんどん苦しくなってきたんじゃないかな?気に入らない人ほど、実はあなたの本音を伝えてくれている人なんだよ。いつも見ている世界は鏡のようにひっくり返っている像なんだよね。そうじゃないと思えば思うほど、そうじゃないことがどんどん叶って現実になっているんだからね。そんな世界だとしたら、あなたはこれから何を願う?