真似すること
障害
いつもあなたはなにかの障害を乗り越えようともがいている。そしてそれを仮にようやく乗り越えて安心した瞬間に、次の障害が現れてしまうわけだ。そんなことで、いくつもの障害を乗り越えてきたけれども、どれだけそうしたところで全くの平穏な状況とは程遠い。そしてどうせそうならばそのままにしておこうとしても、やっぱりそこを乗り越えないと次へ行けないわけだ。でも確実に言えることは、あなたがこれまで乗り越えてきたそれらは、あとになって振り返ればあなたの通ってきた軌跡となって、そのすべてがあなたを支えている存在と化している。それはなんでもないこととなり、かつての苦労は確実にあなたを前進させていることには違いない。
苦労
だから若い頃は苦労は買ってでもしなさいと先人は言う。それを乗り越えてしまえばそれが生きる糧になり、あなたを確実に強かにするからだね。いわばそれらは経験という記録となり、それらを兼ね備えることで対応方法が増えてスキルアップするからだ。その経験はやってみないとわからないことで、知識で得たところで何も役に立たないことが多い。それなのに現代ではやってみもせず、それはあまり効果がないからやめておいたほうがいいと言う風潮にある。一般的にそれらはやるだけ無駄であり、無駄なことをするよりももっと効率的なことを優先した方が賢い生き方だという論法だね。ところがそれらの知見はいつまでも知っているという知識に留まり、実際の知見としては一番低レベルでしかない。結局のところ無駄を排除することで、あなたの人生は貧相なものと成り下がってしまうわけだ。
自己承認
できればあなたは特別ななにか価値がある存在だと思われたいね。取るに足らないと言われるとショックなのはそのせいだ。だから乗り越えられる力を誇示したいから、誰もやったことがない前人未到のチャレンジを達成したいと思っている。けれども、そのクリア条件としてまずは前提条件となる数々の障害を乗り越えるスキルが求められるわけだ。そんなのは知識としてすでに知っている。それで果敢に挑戦してみるのだけれども、まさに知っていることとやってみることの違いを目の当たりにする。やってみてそのプロセスの中で見える景色をあなたは知らないからだ。もちろん結果的には知っていることと同じであったとしても、それをまさに見て感じたという経験までは得られない。だからはじめはそれを真似ることがとても大切になる。赤子が生まれて成長するようにね。真似ることが学びと言われるのはそういうわけだからなんだ。