不自然な存在
受容
ありのままをそのまま受け入れる。それこそが自然と一体になって生きるということだ。あなたが思考したあらゆることを軽々と超越して出来事はやってくる。もはやすべてが想定外であると言って良い。それはあなたが知る過去の記憶から類推するような陳腐な法則性なんて、本来の自然とは似ても似つかないぐらいちっぽけなものだからだ。見える部分だけを取り出して、自分勝手にそれが定説だとか法則だとか勝ち筋だとか鉄板だとか思い込んでいる。けれども相手はそんな小手先でごまかせるような小規模なものではなく、あなたが想像することさえできないぐらいの大いなる流れそのものだからね。だからいつも思い通りにならなくてもがいているわけだけれども、それも全くの無力で非力であるわけだ。現代に生きる人類はなんでもかんでもわかったつもりになっているからこその悪あがきだとも言える。そもそも古来から自然に対する畏怖と尊敬の念は誰かに教わることなく感じていた本能が兼ね備わっていたのに、どんどん薄れていってしまったからね。
法則
成功確率が何%だとか、失敗を防ぐためにはどんな布石を打つべしだとか、そんなふうに準備することが賢明な措置だと思っている。もちろんそれによってあなたの小さな世界では一時的な効果が得られるかもしれない。けれどもそれはたまたまそうなっただけのことで、普遍的にそれを法則化まではできないね。いやいや鉄板でしょう、としたり顔で語るコンサルがいるのはいるけれども、数年後にも同じことを言う確率のほうが低いわけだ。時代背景が刻々と変化しているのも、何も今始まったことでもない。古来から不確実性はあったわけだし、得も知れず起こる自然の脅威に関しても何度も経験してきたことだ。それでも生き残って今があるわけだから、それでいいだけのことだ。そもそもなんとか自然を支配しようともがいてきた軌跡が文明だね。そうやって叡智を結集することで社会を構成し、一致団結して生き抜いてきたわけだ。
共生
そうやって戦い挑んできた相手は、実はあなただったということだ。自然と人工なんていう概念はそもそも輸入したものである。変な話で自然しかないこの世界で、人工とは一体何を指すのか。定義としてはあなたが都合の良いように整備したなにかということになるのだけれども、それもこれも自然というこれまた輸入された概念に包摂されるわけだ。となればどこまでいっても実際はいわゆる自然しかない世界となる。あなたがりんごを見てあれはあなたとは違うと思っているだけで、それが生えている土壌は続くわけだし、草木にもあなたにも必要な水は同じ自然循環から得ている。りんごの木とあなたとの境界線はあなたとは違うという概念をフル動員して初めてなんとか言葉化できるぐらいのことで、実ははっきりとした境界線はどこにも引けないね。この意味すらも理解できないような状態になっているのが現代人だろう。あなたもりんごもさかなも微生物もみんな自然でなくて何だというのだろうね。