理念と現実の間で

日々

理想と現実

教育とはどこまでも理想を追いかけるものでなければならない。なぜなら未来を生み出す第一歩であり、これまでのあなたの経験を反省して次世代につなげる行為だからである。ところが、あなたの成功体験が元になって、それをこれからもそうだと押し付けることが多いね。あなたが苦労してきたんだから、これからを担う子どもたちにも同じような苦労を強いるのは教育ではない。ところがあなたがそこで思考停止してしまっているから、それは必要だと説くわけだ。しかしよく考えてみればそれは避けられるのならばできるだけ避けて、もっと良い方策を考えるための資料としてならなければならないはずだね。そうであるから未来は変化し、より良き世界にすることができる唯一の方法なんだからね。なのにどうだろう。今あなたが苛立っているそれは、あなたがどれだけ苦労してきたかということばかりを押し付けているのではないだろうか。

バックアップ

理想を実現するには、あなた一人が孤軍奮闘しても微力でしかない。そもそもで言うとそういう構造や社会の通念を変えていかなければならないわけだけれども、その支援はどちらかというとあいも変わらず後回しになっていることが多いね。理想だけをあなたに突きつけて、あなたは社会構造を一人で変えていかなければならないとすれば、そもそも無理ゲーだと感じるだろう。教育理念はいくらでも立派なものとして掲げることは容易い。けれどもそれと同時にそれを追い求める状況をバックアップしてあげなければ、いずれ疲弊してうまく行かないことは目に見えている。それが現代社会においての教育を停滞させていることは明らかだね。だから理念と同時にそれらの構造的欠陥を改善していくことが必須だね。本当にそういう未来を掲げて語るのであれば、それがなければまさに絵に描いた餅である。もっといえば教育現場でまずはその理念が叶っていなければならないということだ。

いい人止まり

そんな不遇な状況でも未来に夢を託すために、どれだけの後方支援がなされているか。そしてその実践者に対してどれだけの支援や敬意を払っているか。それがうまくいくかどうかの分水嶺だね。ところが理想ばかりを語って、それをサービスとして提供するべきだという風潮だとうまくいくこともうまく行かないのはある意味当然のことだね。育成とか教育とか子育てとかそんなものを一人の親や一人の教師にばかり押し付けて、彼らの生活そのものを改善するようなことがないと、やがてそれらは停滞することは必然だ。教育や躾は社会生活においてのそれであり、社会がそれを受容しなければどれだけ高尚なものであっても実現することはない。生きる術として社会とは常にそういうものだという冷めた視点だけが伝わってしまうからだ。言っている当人の実感と安心がなければすぐに見抜かれてしまうのはそういうことだし、伝えるメッセージも結局のところ理想と現実には大きな隔たりがあることしかなくなってしまうわけだ。