ただの人
肩書
人を判断するにあたって、当たり前のように使っているのが肩書だね。どこに所属してどんな地位にあるのかだけを見るのに便利だ。だからその内容はともかく、肩書があることでコミュニケーションコストをぐっと下げているわけだ。ところがその肩書とやらは、そんなに絶対的な価値を表すものではないことも知っている。だから肩書だけではその本質を見極めることすら困難であることもわかっているだろう。逆に言えばそれぐらい本質を見極めることがとても骨が折れるわけだね。だからお墨付きとか肩書で一旦のわかったつもりでいるわけだ。それが通用する時代は、とにかく言い訳として使えるぐらいであって、その人の人となりを見極める時代においてはなんの役にもたたないどころか余計なバイアスがかかってしまってもはや邪魔でもあるわけだ。地位や名誉や年収で選んでしまうと、絶対に幸せになんてなれないことがわかりつつも、初対面の人を判断する力がなければそれに頼るしかない。だから未だに一次評価としての指標としてそれがはびこっているわけだね。
本質
だからといって、その人の本質を判断するにはかなりの経験やスキルが物を言うことになる。だからあなたがそれらを一瞬にして見通す力がないわけだ。そこで便利な指標として肩書がある。それほど有名企業に努めて、有名大学を卒業し、年収もそこそこで、地位もあるのならば悪い人ではないという判断を誰もでも簡単に下すことが可能となるわけだ。そのうえで、じっくりと時間をかけてその人の本質を見極めていけばいいという時間稼ぎとなる。だからいわばスクリーニングとしての効果は絶大だと思っているね。ところがそれらの判断が今までは大まかに妥当性を持っていたかもしれないけれども、もはやそんな型にはまった人はなんの価値もないぐらいに時代は変化してしまったね。決められたレールで決められたことをしっかりやれる人という大まかな評価だけでは、どんどん変化していく時代にはもはや対応することが難しくなっているからだ。むしろどんなことが起こってもへこたれない柔軟で強靭な精神性を求められている今では、誰かの言う通りに無難にこなす能力だけではなんともならないわけだからね。
捨てる勇気
そんな時代においては、もはや肩書はプラスよりもマイナス要因になりうるわけだ。どれだけ社会に従順で言われたとおりにできる能力があったとしても、自ら問いを掲げてそれに向かって答えのない時代を生き抜く力はむしろ犠牲にしてきたからこその肩書だからだ。逆に言えばそれだけの地位と名誉を持ってしても、それに依拠するだけの人には何ら価値はなくなっている。それよりもガラガラポンで組織や社会が崩壊していく中で、新たな秩序を構築できる人が求められているからだね。既存の肩書などはもはやオワコンであり、これまでにないポジションとして動けるかどうかが肝心なわけだ。肩書とはこれまでの社会をなぞったものでしかない。そんなものに振り回されたり、そのために努力してきた人はむしろ変化を嫌う傾向にあるわけだ。せっかく苦労してそこまでたどり着いたという思考では、どうなるかわからない世界を冒険する勇気はもはや失われてしまっているだろうからね。