節操
視座
どこからそれを見ているかによって、導かれる結論は大きく変わる。あなたがどれだけ苦労して、努力していてもうまく行かないときは、それを再検討する必要がある。ところがあなたがそれをあなたらしさだとか、こだわりだとか、どうしても譲れないコアな部分だとかで薄々気づいていても修正が困難だね。それを執着というわけだ。自分らしさという名を着せたそれは、あなたをどんどん自然の流れから引き離そうとする。だから流れに沿うことを嫌い、むしろ流れに逆らってしまうことになり、とても苦難な体験をすることになる。さらに厄介なのは時代に流されることを悪とし、そうやって反骨精神を称える傾向にあるわけだから、その苦難という解決のヒントすら見ないことにしてしまう。そうやってあなたはあなたという存在の意義を逆流や逆行の中にしか見いだせないわけだ。それは多かれ少なかれ誰もが陥る罠であり、風に向かっての抵抗があるからこそ、自分らしさを感じ取れる唯一の拠り所となってしまっているわけだ。
ヒント
そうやって自然はあなたにそれは逆行だよと教えてくれているわけだ。すなわちあなたが向いている方向がそうではないとヒントを出している。ところがあなたはそれを全く受け入れられないどころか、それこそが我道だと勘違いしたままだね。あらゆる出来事にいつもアラートを出してくれていることによって、かえってあなたはそうでなくちゃと思っている。流れにそってなんの抵抗もなく、言いなりになって流されていくなんてそんな人生を生きるために生まれてきたわけではないと強がっているわけだ。もちろん、あなたが思うように、易きに流れ、日和見で、風見鶏のような人たちと同じようにはなりたくないと思っているし、それが全く間違いではないかもしれない。自分のことだけを考えて、深く顧みることもなく、ただ流されるように生きている彼らを反面教師として、気骨や気概のある生き様を求めているからだろう。でも、それも本当のところどうかと問われたならば、揺らぐところもあるのではないかな。
虚像
鏡に映るあなたの像を虚像という。それは実像ではないからだ。ところであなたが見ているそれは本物だろうか。その問いに常に答えを探しながら手探りで生きている。それはあなただけでなく、他の誰かも同じことだろう。でもあなたからすれば、思慮が足りないと感じている彼らは思考停止しているように見えてならない。何も感じず、何もこだわりもなく、節操なくすべてを周囲に合わせて、自らの意見を主張せず流されて生きているように見えるからだ。一方であなたは常に自分らしさとはなにか、どうあるべきか、どう生きるべきかなどを考え続けて一歩一歩丁寧に生きているつもりだ。しかしそれもバランスというかちょうどいい落とし所が肝要だね。それにこだわり続けるが故に、ある意味思考が固定化されてしまうし、行動も先の逆張りのような状態が長く続いてしまう。その結果、思慮深い人ほど実は自らの思考の柔軟性を失ってしまっている。それは皮肉なことに流れ流されている人たちからみれば、一種の思考停止だとも言われてしまうわけだ。同じ穴のムジナとなってしまうから注意したほうがいいね。