学びの本質
学び
学びは本来個人的なものではない。あなたの悲しみは誰かにとっては優しさにつながることであり、あなたの苦しみは誰かの助けに変わるものである。それがいつの間にか誰かを出し抜くためのものと変容していったわけだ。それが偏差値であったり学歴であったり、あるいは出世競争の道具となってしまったわけだ。あなたがより良く学ぶことが、実はあなただけの問題を解決するわけではなく、多くの他の人を助けることが本質なんだ。それを個人的なものに変えたのは言うまでもなく現代の教育制度と言っていいい。あらゆる人がそれぞれで学ぶことで、多くの人の助けになるから価値があって、何も個人的な利得のためだけにするものではない。本来の学びはそういうものであるから、徐々にではあるけれどもこれまでの学びの体型を見直す必要が出てきたわけだ。さらにはその評価指標も言われたことを暗記する力だけではなく、それらを通じて何を与えられる力がついたという本来の姿に戻す必要も気づき始めているわけだ。
指標
学びといえばテストとセットになっていることが多い。何をどれくらい理解し記憶しているかというものだ。ところがそれだけでは社会に貢献するどころか、社会に対して害悪を意図せずもたらしてしまうことが多くなってきた。すなわち他人よりも優れているとか、努力したからこそ報われなければならないという一種の苦行を乗り越えた褒美がないといけないという仕組みに取って代わってしまったわけだ。しかしながら、それは社会全体の幸福のしきい値を上げるどころか、誰かの上や下やという新たな序列を生み出してしまった。その結果は言うまでもなく、勝ち組負け組という分裂を生じ、それぞれの人にとっての他者貢献よりも上下関係に利用されてしまっている始末である。そうすることで誰が得をするかと考えてみればすぐにわかるように、社会を牛耳る為政者のためにいわば奴隷のような人たちがたくさん生み出されてしまっている。本来の学びの利得である社会の幸福を底上げするということとはかけ離れて、従順な兵士を大量生産することが最終目標となってしまっているわけだね。
個人と全体
学びとは全体にとっての智慧の集大成であって、素晴らしい組織を形成するための手段であった。けれどもそれを目的化することで自己肯定感を得ることに偏った結果、エリートと呼ばれる分類を生み出したわけだ。あたかもそれが選ばれし人の集合体であるから、すなわち為政者としてふさわしい存在であるとすり替えてしまった。そこで限界知能と呼ばれてしまう学びが不十分な人たちを救うためにその叡智を使うわけではなく、むしろ自らの保身のためにその智慧を使うようになった。そして選ばれし人たちは、自らの仲間を増やすという視点よりも、既得権益を守るために学びが不十分な人たちを支配する側に回ったわけだ。それが一般庶民とか毎日娯楽にふける一般大衆などと呼ぶようになった。そうやって多くの人の牙を抜くことでさらに安価な労働力を得られるようになった。そして彼らが本来の意味で学び始めることを邪魔するようにしているわけだ。娯楽やゲームに明け暮れ、考える隙を与えないように人類の英知をそこに費やしていることで金儲けをしているわけだ。まさにそれが現代社会の縮図であると言ってもいいね。