1号線を北上中
スナップショット
夢や希望ばかりで現実から目をそらすな、なんていう批判もある。そんな夢物語だけでは生きていけないというのがその根拠だね。もちろんありもしないことばかり夢想していても、お金が入ってくるわけではないだろう。しかし、それなら現実とは一体なんだと深く考えてみればすぐにわかるように、それはどこまでいっても途中経過でしかないということだ。今のところそうだというのが現実だと思って飲み込んでいるだけのことだ。今にあれ、と言われるように現実と向き合いなさいということを引き合いに出されてしまうこともあるが、それは使い方がやや正確ではない。途中経過の先には何があるのか。それはやはり理想であり希望がある。もちろんそれは未だ達成し得ぬ幻想に過ぎないけれども、今というのはその目的地への道の途中だということになる。
現在地
道の途中が今であるとすれば、あなたが向かっている目的地が未来であり理想である。夢物語であるそれは、今という道のりの先、すなわちその方向にあるかどうかをナビゲーションしてくれるものだ。地図というのはそれだけではなんの役にもたたない。現在地と目的地があって初めて地図として機能するのだからね。そこで改めて現実と呼ばれる今を確認できる。それがないとあなたはどこへどう行っていいのかすらわからない。だからやっぱり夢や希望はもちろんまだ見ぬ世界であることは間違いないけれども、それを追い求めるのは現実離れしているというロジックは少々無理があるね。目的地があって現在地があってその2つでようやく道のりがみえるわけだからだ。だから夢や希望があるということは、実は現在地、すなわち現実から目をそらしているわけではなく、むしろしっかりと今にあるということだと言ってもいいだろう。
経路
さて、その目的地へ向かう道順を調べようとしたとき、その目的地がはっきりとしているわけではないとき曖昧なナビゲーションしかできない。おそらくその状態を批判されることが多いのだろう。故に夢や希望は本当にそれがそうなのかという精度や確かさも重要になってくる。あまりに遠い目的地であれば地図の縮尺が間に合わずに、具体的な道のりが見えなくなるのは容易に想像がつく。だからとりあえずの経由地を設定することが必要となる。そうやってたどり着ける地図を片手にドライブし続けることで、次の地点からの詳細地図を手にすることができるわけだ。それを続けることが夢を追い求めるということであり、それを最初から諦めると目的地を設定することすらなくなるわけだ。そうなるとどこへ行くともなく知っている道をぐるぐる回り続けたり、もはやどこにもいかずその場に留まり続けるということしかできない。実はそれが正解主義であったり前例主義であったりして、実はそういう人のほうが増えているとすれば誰もがどこにも向かっていないという状況だとも言えるね。