もやもやの正体
探求
もやもやを抱えて生きている。なんだかすっきりしない不満足な状態だ。でもそれが一つの究極の姿であり、その苦悩の中にあなたの生きる意義がある。すべてが充足して満足な生活は、憧れのスタイルかもしれない。けれどもそうならない現実と常にあれやこれやといろんなことを試す毎日は、実はそれ自体が素晴らしく幸せの真っ只中なんだ。それに気づいたとき、ありのままとかそのままを受け止めると同時に、いろんなこだわりやプライドを手放すことができる。そうなったときあなたはこの世界の一部となり、一体化することができる。苦しみがなければ、あなたを支えるすべての存在に気がつくことすらなかっただろう。その苦しみをずっと感じられる一方で、ちょっとした喜びや、感謝できる存在に出会えたのだからね。すべてが最悪な状態はむしろほとんどなく、どれほど残酷な状況におかれてしまったとしても、いろんなものがあなたを支えているのは厳然たる事実だ。
正解
こうなればいいとか、こうあるべきだとかいつも正解を追い求めている。その問いがもやもやの原因の一つだね。あるべき理想の状態に近づくことはあっても完全に一致することはほぼないからだ。だからもっとこうなればいいのに、とかもっとたくさんあればいいのに、とかもっともっとという欲望が芽生える。それもよく考えてみれば、もっと欲しがることができるという状況にあなたはすでにいるということだ。すなわち、生きるか死ぬかの瀬戸際において、そんな悠長なことを言ってられないわけであって、むしろそういうことばかりで頭を埋め尽くすだけの余白がそこに用意されているわけだ。当の本人はそれが当たり前、すなわち所与の状態であるから全く意識の中にはない。何も気にしないでも生きていける最低限が満たされているからこそのそれだ。明日食べる食事が用意されていない状況では、理想もへったくれもないのだからね。
包摂
だからこそ今を愛しく思い、大切に丁寧に生きることが至福の時間であるわけだ。そしてその時のもやもやした不満足は、幸せの証であるわけだ。その余白がすでにあなたには準備されているし、それを解消としようとあれやこれやと行動できるように支えられているわけだし、相談したりする相手もすでに用意されている。すべてはあなただけに準備された最高の環境が次々と整っている。探し求められる喜びは、あなたにさらなる余白を生み出し、その過程で誰かにも優しくすることさえできるようになる。すべてはあなたの不満足な毎日のおかげとも言える。逆に言えばそれを与えられたことによって、あなたは探求し、探し求め、学び続けることが現にできている。万が一あなたがすべてが充足してなんの不満もない生活だとしたら、それらはすべて消え去るわけだ。満足とはすなわち完結と同じであり、そうなればあなたすら必要もない。あなたが必要とされているための前提条件が、もやもやとした不満そのものだとしたらちょっと驚くかもしれないね。