コストゼロ

日々

やりたいこと

やりたいこととは、まだやっていないことだ。もうすでにやりたいことをやってしまえば、どんどんやりたいことは減っていくはずだ。そうしていろんな経験をしていくうえで、もう二度とやりたいとは思わないことも出てくるね。それをやりたくないこととして分類して数えていくことになる。やりたいことをどんどんやることで、ある一定の比率でやりたくないことも増えていく。一方でやってもみないことなのに、なぜかやりたくないことに初めから分類されているものもあるだろう。やってもないことをやりたくないと決めている要素はいくつかあるわけだけれども、一つはやっぱり経験上やりたくないことに似ているようなことが一番の要因かもしれない。類推して分類しているだけで、実はやってみれば意外とうまくいったりすることがあるのはそのせいだね。同じようなことだと決めつけていただけで、その本質は全く違っていたというのがその原因だと言えるね。

夢と理想

やりたいことをやり続けた先に、ある大きな理想というか夢がある。昨今では夢や希望なんていうのは、それほど先々にある壮大なものではなくて、近々の出来事ぐらいでしかなくなっているみたいだ。とりあえず楽な仕事で待遇が良く、人よりいい暮らしができればそれでいいとか、努力は辛いのでほどほどにしておいて、最もコスパのいい人生になればいいとかだね。資本主義社会における法人組織の理屈である、利益を追求し続ける個人としてそう捉えている。なのでわざわざ時間をかけて手間暇かけてやるまでもないことは、徹底的に排除することが正解だという世界に個人も身を置くことになってしまったわけだ。その結果、なんの得にもならないようなくだらない世界はオタクや趣味として区分され、コスパ無視の推し活とよばれるようになった。しかしながらコスパを気にする人生なんて、究極的には早く終わればいいだけとなってしまう矛盾をはらんでいるのには注意したほうがいい。

叶う

ある意味やりたいことがなくなるとき、夢や理想よりもコスパ重視ですべてが叶うとき、それは人生の終結を意味している。生きるエネルギーとはあなたが本来やりたいことをやり続けることであり、コスパを改善することではない。もっといえばコストという概念は資本主義社会におけるカラクリであって人生に適用するものではない。なぜなら少なくともあなたが生きるということは他の生命を頂くことになるわけだ。それが究極になると人が多すぎるという問題に帰着して、良からぬ企みへと変わり果ててしまうわけだ。思考においてのコスパなんていう実態のない幻想にはとらわれないほうが豊かで幸せをもたらすことが多いだろう。人生にはコストはない。メタファーとしてのそれは実態として計算式に入れてしまうとおかしなことになるのはそのせいだ。やりたいことをやりつくした先にはどんな希望が残っているのか。それはコスト重視では見えない扉であるわけだからね。