逆張り

日々

競争

誰かと比べることで今あなたがいる状況が見えやすくなる。だから常に周りを気にして比べてしまうクセがついてしまうわけだ。あなたもそういう類の辛酸を嘗めた経験がたくさんあるだろう。そして少しうまく行ったときは、勝者の喜びで満たされたこともある。でもその競争において真の勝者を探してみてはどうだろう。本当の勝者は実はあなたではなかったりする。誰かにはめれられた競争でしかないことに気づいた時、それは一気に虚しさに変わる。何を餌に競争させられたかを知る時、あなたはその真実にふれる。あなたの中の敵は実はあなた自身だったりすることが多い。そして実は何も競争などしておらず、ただそう仕向けられた罠だとすれば、ただただその場で愕然としてしまうわけだ。そういう意味ではあなたは他の誰かに勝ったことなど何一つなく、同時に負けたこともないね。

比較

比べることで何が得られるのだろう。周囲よりも劣っているとか優れているとか、背が高いとか低いとか、偉いとか偉くないとか、そんなものだね。それらの真実が暴かれた時、あなたは何かを得たようで何も得ていない。もちろん比べること自体が良いとか悪いとかという話ではなく、比べて得られる差異は、比べたからそこにあるだけで、それを元に何かを確かめようとしても実は何も確かなことなどない。なぜならそこにあるのは比較したという行為だけであって、その結果として捉えるそれは、事実を浮き上がらせる単なる手法の一つだからだ。そしてその事実はそれだけのことであって、そこに優劣や勝敗を決めているのはいつもあなただからだ。そしてそれはいくらでも見つけることができる一番簡単な方法にすぎないのに、それをあれこれと加工して結論じみたものを一人勝手に下しているだけだ。

評価

結果がすべてだという言葉には、なんの意味もないことがそれでわかるだろう。結果自体が本来連続性の切り取りでしかなく、しかもその優劣に関しては何ら根拠すらない想定であるからだ。そしてそれを気に病んであなたはもっと頑張らないといけないと思っているけれども、すでにその時点で十分だね。勝敗はある狭隘な条件とあまり意味のないルールによってしか決められない。とても特殊な条件下の元にしか判定できないものだ。それを大事として捉えてしまうのは、それもどうでもいい一つのことに縛られるように仕向けられただけのことなんだからね。だから結果がすべてなんていうのはまやかしの言葉であって、それはあなたを魔法にかける呪文でしかない。プロセスがすべてであって結果はある限定された些細な判定基準によってなんとか導き出せるものということを知る時、ほとんどの仕組みがそうなっている社会を疑ってかかるといいね。おそらくは逆張りすればほぼ真実だろう。まぁこれは内緒にしておこうか。