不即不離

日々

気になるけど気にしない

世界は言葉で出来ているね。いまやあらゆるニュースで溢れかえる毎日。必要な情報もそうでないのも、全部追いかけられないぐらい大量に飛び交っているね。とてもじゃないけれど全部咀嚼して処理することができない。そうだからか、自己防衛策として多くの人がイヤフォンをつけて余計なノイズから耳を塞いているように見える。玄関から外に出るや否やイヤフォンをつけ、そこから流れるお気に入りの音楽で心を満たしている。そうすることで容赦なく飛び込んでくる忌まわしい喧騒を遮断しているね。聞きたい音に囲まれることで、自分の心を整えているんだろう。そうしないと、必要な情報もそうでないものも、興味関心を問わず一気に流れ込んで心を揺さぶるからね。せめて心地いい音に囲まれることで、無意識に自分を守っているようにも見える。だけどノリノリになったり、笑顔で歩いている人は少ないね。多くの人は表情は一切変えずにいるみたい。

関係ないがある

そんな風に外の世界は嵐のように騒がしいから、せめて聞こえる音だけは整えようと自己防衛しているけれど、視界までは封鎖できないと思っていた。だけど『歩きスマホ』なんて言葉ができているから、もしかしたら目もつぶろうとしている人も増えているのかな。外を歩いているのにスマホの画面に視線を向けるんだよね。もう耳も目も塞いで歩いているのと同じだね。だけどスマホの画面から見える世界は相変わらずニュースを見ていたりするね。ほとんどは関係ない、興味もないことだらけ。でも見てしまうことで意識の中にだんだん刷り込まれていく。そんなの関係ないと思っていることだらけだなと思いながら流し読みしている時点で、関係ないことで世界は支配されてしまっているよ。無反応なフリをしてもしっかりと刻み込まれていく。そのせいか、なんだか憂鬱でいつも重たい気分を引きずっているんじゃないかな。ご機嫌な音楽はちゃんと聞こえているのかな。

見ない勇気

関係ないし興味もないことだらけなのに、全部遮断できない。SNSなんかで面倒なメッセージが容赦なく届く。知りたくもない他人事を目にするだけではなく、なんらかのリアクションをとらないといけないと脅迫されている。なんて返信しようなんて考え出してもう頭がいっぱいになっている。なら見なければいいんだけど、なんだか取り残されるような気になって、見なくていいのに見てしまう。興味ないのにと思うことだらけで実は満たされてしまうね。離れたいけれど離れられなくなっているのは、もはや恋愛のように恋い焦がれているのとあまり違わなくなる。そんな状況を認めること自体が恐怖なんだけど、天邪鬼みたいに、怖いモノ見たさっていうのがあるのかな。

付かず離れず

関係ない情報に振り回されても、それほど深刻にならないためにはどうすればいいのだろう。本当はみたい情報だけ見られるといいんだけど、どうしてもノイズが増えてしまう。処方箋としては「すべてを見ないこと」だろうね。でもそれは一時的な対処療法でしかない。ずっと見ないでいられるなら重苦しい感情が生まれてきたりはしないね。そんな風に心を揺さぶり続けている元を探すことが根本的な処方箋になる。そこにヒントがあるかもしれない。ニュースを人ごとだと見ようとすればするほど苦しいのなら、そのニュースを見ている自分を見つめること。そうすることで自分ごととか他人ごととか関係あるとかないとかという思い込みから少しの距離を置くことができるね。さらに悩ましいと思っているニュースは文字や記号の塊でできているね。スマホなら液晶の点滅で文字が浮き上がっているだけだし、新聞ならインクのシミを見つめている。そんな風に不即不離の関係を構築することが大切なんじゃないかな。壁のシミを見てお化けに見えて怖がっているのと同じだね。ちょうど熱烈な恋愛感情が過ぎ去っていくみたいにね。だから歩く時ぐらいは、目を見開いて耳をすまして街を歩こう。風やにおいや足の裏の感覚を愛おしく感じながら、歩くことに専念することが大切だと思うよ。あらゆる音と目にする今ここを感じながら。そうすると、今ここに「恐ろしいお化け」はどこにもいないことがわかるからね。