向かう先へ
遠くを見つめる
近くばかりを見つめている人は、遠くを見ることは少ない。遠くばかりを見ている人は逆に近くを見つめることは稀だ。これは何も手元とか景色とかという話ではなく、視座の問題だね。遠くとか近くといえども、それがどの程度であるかはここでは含まれていない。数十メートル先だったり、数キロメートル先かもしれないし、もしかしたら概念的な遠近の話かもしれない。メタ認知なんて概念的にもう一人の観察者がいるというイメージだろう。まさにそれは幽体離脱したあなたという意味かもしれない。いわばどこを見ているのかでその人の見ている風景は大きく変わるということを意味している。今月の数値はとか、今日のの数値はいくつだとか、そんなことで人生を消耗している人もいるし、誰になんて言われようともその先を見つめている人もいる。理想を言えば遠近を超越した先を見据えつつ、足元もしっかりと見つめることが良いという結論になるだろう。
その先
道順をナビゲーションしてもらうとき、そこへ到達する少し前に次の進路を提示してもらうのが一番心地よいね。それはほんの一瞬のタイミングでずれると、なぜかとても使いにくいと感じてしまうわけだ。進行しつつ先読みをしてもらうわけだから、絶妙なタイミングでのナビはとても心地よい。早すぎても遅すぎてもギクシャクしてしまうからね。まさに迫りつつある分岐点に差し掛かる手前のいいタイミングで、次は右です、というタイミングは実はあなたの動作速度と連動していなければならないからだね。逆に言えばあなたが全く動いていないときに限っては、その絶妙なタイミングというものは存在しない。もっと言えば指示すら不要だね。そのずっと先を右へと言われたとしても、どれぐらいそこから離れているかをじっくり調べてみればいいからだ。さらにはそれに対しては疑念を感じたならば目的地そのものを再検討することができるわけだからね。動きながら、走りながらというところだけにどうやらタイミングというものが生まれるようだ。
機会
だからあなたが何もしないでいるときは、機会は訪れることはない。さらに言えばその道程の提示も緊急性を持たない。だから何もしないでいれば機会を失うという経験すらなくなってしまうわけだ。チャンスは何かしらのアクションをしている間だけに生まれるということ。安全地帯で停止しているときは、存在し得ないものだ。だから今この人生を変えたいと思うのならば、何がどうであっても行動を先にすることでしか変えようがない。しかしそういうときに限ってあなたは疲弊していたり、一休みという言い訳をしながら実は停止していることが多い。間違っても失敗しても、そのナビがポンコツであってもまずは走り出すことが肝要だね。あなたがどこかに向かって動き続けているからこそ、見ている風景も変わり、絶妙なタイミングで方向の指示を聞き取ることができる。まずはアクションが先だね。走りながら考えるというのは、そういうことを示唆した言葉だよ。