本当の愛とは

日々

愛とは

これまで愛とはそれ自体で完結しているものであり、それ以上でもそれ以下でもないと思っていた。ところがそれ以上の何かをそこに求めたらそのバリエーションはとても多くて、一言で語ることができないなにかであることを感じている。それはとてつもなく広く大きくて、何を持って愛を語ることができるのかがわからなくなるほどだね。そっと見守るということであっても、それは愛であるし、何もしないということを貫く強さも愛である。それを感じたとき、愛という幅の広さに驚愕するのだけれども、一方で細々としたことであっても大いなる愛に包摂されることも知っている。見守るための時間の使い方も愛であり、細々とした支援も愛だ。それをあえてやらないのも愛だし、それをやるのも愛だと言える。それぐらい形が決まったものではなく、愛するという得も知れぬ思いだけがそこに横たわっているわけだね。愛の形には色んな種類があるけれども、それが押し付けにならないように注意しなければならないのもそうだね。

自己愛

そうして愛するのには、形があるようでないわけだけれども、自分だけに対する愛情には一定の根拠があるね。多くの場合それは自己愛と呼ばれ、どうであってもあなただけはあなた自身を見捨てないということだ。もちろん自分だけに固執すると大抵の場合は偏愛になってしまうわけだけれども、自分にとっての愛は、他人対するそれとは少し性質が違うことに気づくだろう。誰しも自分がかわいいと思ってしまうことは避けられないわけだけれども、だからといって自分だけそうだと思ったところで、それは愛というには物足りないわけだ。自分かわいさを主軸においたところで、それ以上の広がりも、博愛に通じるなにかもそこにはない。ただただ自分かわいさばかりだけがことさら強調されてしまい、ややもすれば他人をないがしろにさえしてしまう強力な偏愛となってしまう。そうまで自己愛を主張するための大義は見つけることもできずに、ただただそうであるという状態では、すでに気づいているだろうけれども、筋を通して説明することさえ困難になってしまうわけだね。

博愛

だからそれをなんとか改変して、すべての人さえも愛で包みこむという状態に持ち込もうとするわけだ。まさか自己愛で自己中だと言うだけの愛ではなく、その礎は博愛というワンランク上の概念からそうなっているという状態にしたいわけだ。そうでないと、自分だけ良ければそれで良しという陳腐な愛ではないという根拠を得ることで、あなたの愛が正しく機能していることを証明したいからだね。ところがどこまで言っても結局のところ根本というか、拠り所としてはまずはあなたが愛されているという実感を得たいがために、その言い訳を考えているだけに過ぎないわけだ。あなたが愛されるには万人がそうであるという状態でないと、単なるえこひいきという現象だけに帰結してしまい、他人とってみればそれは愛ではなく、自分勝手な瑣末事になってしまうからだ。もっと大きな愛の中に、その一部分だけを切り取ってみればあなたもたまたまそこにあるということを説明するのに、あなたは愛を語るのを戸惑っているだけだ。さて、本当の愛とはあなた以外に向けられるそれなのかどうなのかは、あなたの心の中に聞いてみないとわからないものだね。