パーパスよりコンテキスト
物語と目的
目的が主語になる時代になって久しいね。目的のために戦略を立て、戦術を実行することが称賛されることが多い。企業であれば利益を上げるとか、勉強で言えば成績を上げるとか、テストであれば高得点を取るとかだね。恋愛にしても、幸せになることだとか、家庭であれば円満に暮らすとかがそれに該当するわけだ。だから社会生活において、それらが十分に果たせていないことを欠落したものだと断定して、それを補うために、もしくは改善するために必要な施策を見つけようとしてもがいている状態だね。円満な夫婦関係、円滑な組織運営、統制のとれた会社組織などはそれを達成するための必要条件として優先順位が高くなっている。それでも一向にうまくいきそうでいかないのは、その目的の裏側にある文脈がすっぽりと抜け落ちていることが多いからだ。あなた自身を初めとする集団や組織が一丸となって目的を達成するには、目的を支えている物語がそこにないと単なるノルマの一種に成り下がってしまうからだね。
過程と結果
したがって、上手に時代の意識潮流を読み、それにそったコンテキストを組み立てられるかどうかが、その結果を大いに揺さぶることになる。あくまでも目的や目標は一時的な経由地点であって、最終到着地ではない。しかもそこにたどり着く道順は一通りではない。その中で寄り道をしている場合ではなく、最短経路を選ぶことが合理的であると思い込んでいる。そんな状況の中で目的と結果だけでお尻を叩かれ続けるわけだから、その道中に楽しんだりすることは不謹慎だとさえ思っている。とにかく目をつぶって、あなたの直ぐ側で仲間が倒れたとしても、そんなやつにかまっている場合ではないというレースに参加させられているわけだ。個々の能力が強力し合うことで個人ではなし得ない偉業を達成できるはずなのに、目的ばかりに目を取られてしまうとその機会を失うことになる。そこで悩んだり立ち止まったりすることそのものが文脈を構成し支えるわけだけれども、それを無駄だと切り捨てて目的だけを遂行するようになると結局のところ思ったほどの結果にはならないのはそのせいだね。
データ分析
帰納的に数値という結果だけをいくら眺めても、そこから推論される仮説は驚くほど使えないものばかりだ。それもそのはず、いくら結果を積み重ねてもそれを支える物語は生まれない。それどころかそこから導き出す仮説はまるで使えないものになる。そこでいわゆるその結果を導き出した物語を仮説として生み出すことで、それが依拠する論拠は貧弱だけれども、それをもって実際に試行錯誤するということが必要なわけだ。その再現性によって確からしさを試していくことで、見えなかった物語が見えてくる。それでも例えば過去には戻れないわけだから、絶対にそれがそうだったという根拠は得られないわけだ。けれども、それに近い結果が得られることでおそらくという制限付きではあるが、その結果を支えている裏側や仕組みが見えてくるね。物語がそうやって望ましい近似値を生み出すとすれば、目的が主語になるよりも、背景である目的に注目したほうがどうやらうまくいく可能性は高いと思うんだけれども、どうだろうね。