膝を突き合わせる
人生はプロセス
いつの間にか結果だけが重視され、そのプロセスは軽視されるようになった。それは数字で評価することが絶対的になったからのことで、良く考えれば最近のことだね。人柄とか言葉遣いとか表情とか声色なんていうものは取るに足りないものとして扱い、とにかくKPIと呼ばれる数値で評価されるような仕組みが導入されたことがそうなったわけだ。一方で、人間関係においては即座に友達度80%とか、親和性50%なんて数値で表すのは相変わらず困難だ。その問題をそのままにしてなんとか率という数値を無理やり運用することで、なんとなくわかったふりをしているだけのことで、それは恣意的な範囲から抜け出させないままである。なのに数値に変換することでまるでそれが絶対値であるかのような錯覚をもたらすことで、実はその上での判断はことごとく間違っている。それはこの数年で組織運営が致命的な結果に陥っている最たる原因となっていることからも明らかであると言っていいいね。
ノンバーバル
人は言葉や数値だけから得られる情報なんて本能的に排除している傾向にある。それは無機質であり概念としてのそれであり、直感と合致しないことが多い。しかも本能である生存本能に刺さる情報は全くそこからは得られないからだ。例えば同じ言葉をかけられたとしても、言葉通りの意味を受け止めるわけではなく、ほとんどがそれを発言している人の表情やトーンによることが多いわけだ。いくら優しい言葉をかけられたとしても、その上での行動や表情のほうがより本質がつかめる。言葉は嘘をつくことができるわけで、それはおべっかでそう発言しているのか、なにか下心や計算があってのことなのかを恐ろしいほど見抜く能力を兼ね備えているね。あなたの生き残り戦略という最重要課題において言葉の内容よりもそっちのほうがまさに生きるか死ぬかの情報がつかめることを知っているからだね。ということは言葉の内容なんていうものは、実はどうでもよくてそれよりも大切なことがそれ以外の要素に隠れているということでもある。
記号
さらにそれを文字にすると、そのままでは全く伝わらないか誤解を生む原因となることが多い。すなわち言葉をかけるよりもさらに真意を掴むことにかんしてはハードルが上がってしまうわけだね。だからそんなつもりで書いたはずではない文章が、そのコンテキストを理解されることは少ないわけだ。さらに言えばそのコンテキストを言葉という記号から、その向こう側のなにかを読み取る力がどんどん失われつつある時代だから、余計に意図しない状況になることが多くなった。文字情報が記号データとして飛び交う情報化社会において、おおよそ誰もが幸せになれそうでなれない理由はそこにある。いまどき対面でしか話ができないとか、もはや非効率的な少しふるぼけた手段と化している。すべてが通信でつながっている世界において、非同期コミュニケーションが便利で合理的な選択だと感じるのは無理もないね。さらにはAIによって言語という記号を巧みに操ることができるようになった。そんな現代においては実は一番コストが高い対面でのコミュニケーションが貴重になっていくのは自然の流れでもあるわけだよ。