永遠の思い出

日々

追憶

あなたは記憶の塊でできている。うれしかったことも、悲しかったことも、辛かったことも、心動かされたこともすべては記憶でしかない。そしてそれらはみなあなたを形作っている。それをあなたは自分自身だと思っている。だから、あなたらしさはそこから生まれてあなたがそれを採用しているわけだ。しかしながらそれらの体験の記憶は、あなたが主体的に受けたものばかりではなく、たまたまそうなったことのほうがどちらかというと多いね。不思議なことに主体的にすべてを享受してきたと書き換えているけれども、実のところはそうなるようになったことをほとんどあなたの功績として受け入れて今があるわけだ。それを極端に言えばあなたは生かされている存在であり、これまでもこれからもあなたが主体的に何かをやろうとしたところで、それらの結果はその状況に応じて与えられたものであなたが構成されるしかない。人生は思い通りにならないというけれども、そもそも人生なんていうものも記憶でしかないわけだ。

体験

いろんなことがあなたの意図とは程遠いところで勝手に起こっている。そしてその結果も実はあなたが関わる以前から決まっている。そしてその記憶がまた新たなあなたを作り上げている。そのサイクルの中であなたは楽しんでいるわけだ。その一つとしては、どうにもこうにもうまくいかないことを悲観したり、たまたまうまくいったことをまるで自分の手柄のように喜んだり、あるいは誰か近しい人の成功を自分ごとのように喜んだりしている。それらの体験の一つ一つが次の新たなる体験を創出している。まるでそれはドミノ倒しのように連鎖反応のようなものであり、それが一つでも躓くと途端にその流れが止まったように思えるわけだ。この先にはこんなふうになることを期待していたのにそうならなかったとしてがっかりするわけだけれども、そこまでの連鎖反応は確実にあなたの体験記憶となり、それ以降も途切れることもなくその後の続きが見られるようになっている。

最期

本当の意味で体験や記憶の終端は、あなたがこの世にいなくなったときに訪れるわけだ。そして今までの総括をその一瞬の間に結論づけることになる。やっぱりそれでも人生は捨てたものではなく楽しかったと思えるかどうかだね。記憶は永遠でありあなたがこの世から消え去ったとしても、あなたの記憶を外部的な要因で消去されることはできない。もちろんあなたが消え去ったならばその記憶も同時に消去されてしまうと思っている。それは今のあなたからすればそうであろうと推測しているだけで、実際のところは誰にもわからない扉の向こう側だ。おそらくこの世の誰もがそこへ行くことになるのだろうけれども、そこから帰ってきた人がいないからその先のことは全く未知の世界ではある。けれども人生の醍醐味はおそらくはそういったかけがえのないと思える体験と記憶が主たる目的だということは、なんとなく気がついているだろう。ならばもっとその人生とやらを楽しんでもいいんじゃないかな。