仮説推論
正解主義
この国では、失敗は悪とされている。だから失敗したら謝罪したり、責任の所在を明らかにして終わりになることがある。その際にたいてい行われるのが、トップの辞任だね。交代することで責任を果たすという意味合いが強いわけだ。もっと言えば責任とは交代することそのものであり、失敗の責任とはすなわち首謀者を罰することと同義となる。これではいつまでも試行錯誤がうまくいかない。失敗したからこそ、トップが果たせる役割としては単なる首の挿げ替えではなく、その原因分析に全力を果たす体制づくりであるはずだ。そういったポジティブ・フィードバックが失敗の価値であり、それを臆することなく繰り返すことで大きな成功や変革がもたらされるはずだね。ここ数年のこの国のトップがコロコロ変わるのはそういった正解主義に陥っている証拠でもあるといえる。
コンテキスト
そうやって何らかのリーダーシップを果たすためには、突発的に行動したり、異色な意見を述べるだけではうまくいかないことがわかってきた。そうではなく、まずはその目的に応じた風を読む力が必要だ。さらにはその風の大本を仕掛けて、機が熟するまで待つという仕込みも重要となる。大いなる変革を達成するときは、ただやってみせるとか、指示命令をするとか、スローガンを提唱するだけではなにも変わらない。そうではなく、そのための伏線を仕込み、それが徐々に浸透し、絶妙なタイミングでそれを実行するという段取りが必須だ。理念だけでは空回りし、正論だけでは人は動かない。それらの必要条件を熟成させることが最初の第一歩だね。そのためにはまずは現場それぞれの意見や意図を確認しつつ、その先のビジョンを提示していく必要がある。話はそこからだね。
記録
そのためには、小さな現象や変化をできるだけログとして残す必要がある。いわば自己フィードバックのような地道な作業によって、機運を掴むための準備をすることが重要となる。それがないと、それこそ機が熟したかどうかという判断を見誤ってしまうだろう。もちろんそこにも失敗はつきものであって、一度失敗したからといって中断するようなものであってはならない。ロギングとは常にどんな状況になろうともありのまま残すということに意味があって、中断されたログは単なるゴミと化してしまうからね。どんなことがあっても、いいもわるいも、失敗も成功も、そのまま時間軸にそって記録することで、大いなる変革の機運を読み取る可能性が上がるはずだね。もちろんそのデータをどう分析、解析するかというスキルもはじめは未熟だろう。しかし粘り強く継続することで確率と法則が読み取れるようになるだろう。結局のところ急がば回れとなるわけだけれども、その過程そのものが実はイノベーション前夜とすでになっているわけだね。