自由という不自由

日々

予想外

いつも人生は予想外のことだらけで辟易しているかもしれない。でもそれがあなたが生きる道であり、本質だとも言える。なぜならシンプルにいつも予想外のことばかりが起こるという現象からそう類推することができるからだ。でもたまに、予想通りというか首尾よくうまくいくこともあるね。それは想定内であり、そのための準備や段取りが功を奏したと感じるからだ。結局のところあなたが思うがままの人生を歩みたいと勘違いしているから、そういう分類になっているだけのことで、本質的にはどちらかといえば予想外のことが起きたときに、あなたが四苦八苦して対応してなんとかやり過ごすということのほうが幸せであり、それこそ生きる醍醐味でもあるはずなのに、何故かその逆を望んでやまないのは不思議なことだ。変化を嫌い、上り坂や下り坂が続く急峻な道を行くよりも、平坦な道をのんびりと歩くほうがいいと思ってしまう原因を分析してみると、その意外な勘違いに気がつくかもしれないね。

退屈

あなたが予想通りに、それこそ順調に人生を歩んでいたとしても、あまりにそれが出来すぎていたならば今度は退屈という不幸が襲ってくることになるのは知っているだろう。あまりにも刺激がなさすぎてだんだんつまらなくなって馬鹿らしくなると、急にそのコースから離脱したくなる欲望が湧いてくるわけだ。そこであなたはふと立ち止まって見つめ直すことになる。果たしてあなたはどうしたいのだろうかとね。とびきりお金持ちではないけれども、明日の食事にこまることはない。豪邸に住んで家政婦さんがいないと掃除も行き届かないような状況ではないけれども、狭いながらもコンパクトにまとまって住心地はそれほど悪くないアパート暮らしができている。おかげで雨風にさらされることもなく安心して眠りにつくことができている。よくよく考えてみればあなたはいろんな今あるものに支えられて、これまで生き延びてきたことに気づく。それを退屈なんて言ってしまうのはどうしてだろうね。

自由

もっとお金があれば自由になれるのに、なんて妄想しているのも実は今それほど困らないお金が手元にあるからそれができるわけだ。そしてあなたが求める自由はいつでも実現可能であり、すぐそばにいつも待機している。なのに、あなたは不自由だと嘆いたりしているね。手元にお金があるのに、お金がないと呟いたり、自由がそばにいつもあるのに不自由だと嘆いたりすることが、実はあなたがやりたかったことなんだとも言えるわけだ。そして自由になろうとして自由に縛られてしまうのも、同じ理屈だ。そもそも自由とは何であるかも未だによくわかっていないからだ。ぼんやりとして自由は、あなたにとっては現状から脱却するなにかだとしか見えていない。なぜならもうすでに自由とともに人生を歩んでいることがその証拠だね。いつでも好きなときに好きなことができるという素晴らしい環境に身を置きつつ、不自由だと嘆くことが最高の幸せの中にいるという、なんだか残念な状況となっているわけだからね。